パール判事は戦後もアメリカの原爆投下を激しく非難

またパール判事は、1952年(昭和27年)11月に広島を訪れ、講演を行なった。彼は、「世界に告ぐ」と語りかけ、「広島、長崎に原爆が投下されたとき、どのような言い訳がされたか、何のために原爆が投じられなければならなかったか」と強い調子で訴えた。

講演では、「いったいあの場合、アメリカには原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏する用意ができていた。投下したアメリカから真実味のある心からの懺悔の言葉を未だに聞いたことがない」、連合国は「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため、を言い分にしているようだが、その代償として、罪のない老人や子供や女性を、あるいは一般の平均的生活を営む市民を幾万人、幾十万人殺してもいいというのだろうか」、「我々はこうした手合いと、再び人道や平和について語り合いたくはない」と極めて厳しく、アメリカの原爆投下を糾弾した。

しかし、ナチス・ドイツのホロコーストは極めて深刻かつ重大な犯罪であると断罪されたが、原子爆弾についてアメリカによる戦争犯罪であるという主張は、ついに認められなかった。

日本はアメリカに敗れた。だがそれは日本軍がアメリカ軍に敗れたということで、日本人がアメリカ人に敗れたということではない。敗れた国の民間人が蹂躙じゅうりんされた記憶を、私たちは忘れてはならない。

グ「マンハッタン計画」のグローブス少将(左)とオッペンハイマー博士、1942年
「マンハッタン計画」のグローブス少将(左)とオッペンハイマー博士、1942年(写真=アメリカ合衆国エネルギー省/PD-USGov-DOE/Wikimedia Commons

アメリカ海軍は原爆投下からわずか4カ月で「問題なし」

「ATOMIC BOMBS,HIROSHIMA AND NAGASAKI ARTICLE1 MEDICAL EFFECTS」(「原爆・広島と長崎・論説1・医学的影響」)という極秘文書がある。

原爆投下直後から被爆地を調査したアメリカ海軍が投下からわずか4カ月後の12月にまとめたもので、79ページのボリュームがある。

冒頭に「米国および日本による調査に基づき、残留放射線について十分に検討した。そして、爆発の後に残る人体への危険性は無視できる程度であると結論づけた」と記されている。

危険性は無視できる範囲……この表現自体に、またしても驚かされる。一方報告書には、米軍が現地を中心に広範囲にわたって残留放射線を測定したとされており、長崎から約80キロ離れた熊本でも、日本人研究者によって残留放射線が確認されているとある。明らかに矛盾した内容である。