79年前、広島、長崎への原爆投下はアメリカ国内でも止めるべきだという意見が出てきていたのになぜ実行されたのか。作家の山我浩さんは「原爆投下を決めた大統領、陸軍将校らは、事前に科学者たちが提出した警告を拒絶。投下後もその甚大な被害を矮小化した。彼らの執念は今もアメリカを呪縛しつづけている」という――。

※本稿は、山我浩『原爆裁判 アメリカの大罪を裁いた三淵嘉子』(毎日ワンズ)の一部を再編集したものです。

原爆投下直前、核兵器開発に成功した米国で作られた報告書

戦時中の1945年6月11日、シカゴ大学に設けられた、「マンハッタン計画」に勝力した7人の科学者による委員会は、原子エネルギー、特に原子爆弾の社会的、政治的影響を検討して、大統領に宛てて報告書を提出した。「政治的・社会的問題に関する委員会報告」をタイトルとするこの報告書は、委員長ジェームス・フランクの名をとって、「フランク・レポー卜」と呼ばれている。

報告書は5つの節からなり、初めに、マンハッタン計画に参加した科学者という特殊な立場から、発言するのは自分たちの義務と考え、「残りの人類はまだ気づいていない深刻な危機を知った自分たち7人が、ここでの提案をなすことが、他の人々への自らの責任である」と記した上で、科学的知見に基づいて、戦後に訪れるであろう世界の予測を行なっている。

そこでは、基礎的科学知識が共有され、またウランも独占はできないため、どんなに機密性を保持したとしてもアメリカの優位が「数年以上我々を守り続けることができると望むのは馬鹿げたことである」として、核兵器のアメリカによる独占状態も長くは続かないだろうと予測した。

広島に投下された原子爆弾リトル・ボーイ
広島に投下された原子爆弾リトル・ボーイ(写真=US government DOD and/or DOE photograph/PD-USGov-DOE/Wikimedia Commons

「もし日本に原爆を使ったら、他国からの信頼を失う」と警告

さらに、核兵器にはそれに応じて防ぐ有効な手段を提供できないという致命的な弱点がある。結局、核戦争の禁止協定のような、国家間の国際的合意を行なうことによってしか、戦後の核開発競争と核戦争の危機を防止できないと断じた。

報告書は、この国際的合意の締結のために、「核兵器を日本に向けて初めて使用する手段と方法が、大きな、おそらくは運命的な重要性を帯びる」とした。そして、日本に対する予告なしの原爆使用は、他国からの信頼を失い、国際的な核兵器管理の合意形成を困難にするであろうと警告。

日本に対して、無人地域のデモンストレーション実験を行なうこと、もしくは爆弾を使用する前に早急に核兵器の国際的な管理体制を作り上げるよう、訴えた。

「フランク・レポート」は、「マンハッタン計画」に従事したシカゴ大学の科学者グループから生まれた。原子炉建設など、計画初期には重要な役割を果たしていたが、ドイツが原爆を保有していないことが明らかになる1945年春頃から、グループの科学者の間から、日本への原爆使用への懸念が示されるようになった。