科学者たちによる原爆使用への懸念は無視された
メンバーはフランクの他、ドナルド・ヒューズ、J・ニクソン、ユージン・ラビノウィッチ、レオ・シラード、J.C・スターンズ、それにグレン・シーボーグである。このうち委員長のフランクは1925年のノーベル物理学賞を、グレン・シーボーグは1951年のノーベル化学賞を、それぞれ受賞している。
「フランク・レポート」は、1945年6月11日、大統領に提出された。
紆余曲折ののち、彼らの提案は拒絶された。
のちにオッペンハイマーは「フランク・レポート」に対して、
「あの当時、反戦派と抗戦派に分断されていた日本政府が、フランクらが主張するように高高度で爆発させ、爆竹程度の被害しか与えないようなやり方で降伏したかどうか自問してみれば、答えは誰でも自分と同じようなものになるだろう。分からないのか」
と語ったが、本当に彼はそう信じていたのだろうか。
「原爆使用はホロコースト」と指摘したインドのパール判事
終戦後、第二次世界大戦における戦争犯罪を裁くニュルンベルク裁判(ドイツ)と極東国際軍事裁判(日本)が開かれた。極東国際軍事裁判(いわゆる東京裁判)で連合国は、ニュルンベルク裁判との統一性を求めた。
インド代表のラダ・ビノード・パール判事は不同意判決書(日本の無罪を主張)の中で、アメリカが日本に原爆を投下したことの犯罪性を不問に付した東京裁判の判決に対して、痛烈な批判を投げかけた。
パール判事は、日本軍による残虐な行為の事例は、「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によって立証されたと判決されたところのそれ(ホロコースト)とはまったく異なった立脚点に立っている」と指摘した。
これは、戦争犯罪人がそれぞれの指令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを示すものである。その上で判事は、「(アメリカの)原爆使用を決定した政策こそが、ホロコーストに唯一比例する行為である」と論じ、原爆投下こそが無差別的破壊として、ナチスによるホロコーストに比べられる唯一のものである、としたのである。同じ趣旨の弁論は他の弁護士も行なっている。