元ネタは投資である「希望」の喧伝

「夢」や「希望」を喧伝する、それこそ夢のように馬鹿気た話を、若いころに何度も聞かされたが、この「夢」「希望」噺の元ネタは投資である。

投資は時間差で儲ける。将来の儲けを当て込んで、今ある金をつぎ込む。将来の理想のため、今ひたすら努力しろと言い募るのは、先の大金を期待させて、いま手元の金を使わせて儲ける金融会社と同じで、「夢」で気を引いて、現在の「努力」を絞る誰かがいる証拠だ。その「洗脳」の結果、休日を「スキルアップ」のため「自分に投資」する者まで出てくるのである。

儲けは、時間差だけではなく、空間差でも生じる。交易である。交易は、こちらに無いものがあちらに有り、こちらに有るものがあちらに無いという、その「差異」で儲ける。

この儲け方をそのまま人間関係に当てはめると、「個性は大事だ」というシュプレヒコールになる。まるで「個性」という物がどこかにあって、それが各自の「中」に詰まっているような言い草だが、らちもない錯覚に過ぎない。

南 直哉と仏像
撮影=新潮社

頭の「市場化」を止めるべき

「個性」などというのは、同じ物事に対する態度の違い、取り組み方の違いなどを通じて、結果的に現れるものであって、多くの場合、他人から言われて気が付くものである。

いきなり「私の個性は……」などと堂々と言い出す者がいるとすれば、おそらく勘違いしたナルシストくらいであろう。

この「個性」は最近さらに市場化している。時々会話に、「私の売りはですね……」というセリフを聞くことがある。この「売れる」個性が「キャラ」だ。

「○○って、私たちの中では、癒し系キャラだよねっ!」

おそらく、「人材」に市場があるように、いまや友人関係にも「友人市場」があるだろう。そこでの「人材」が「キャラ」だから、一度「癒しキャラ」に就職したら、その友人関係にある間は、割り当てられた「キャラ」をお勤めすることになるのだ。

もはや市場が社会を規定している以上、そこから離脱することはできないし、後戻りもできまい。が、市場は「閉まる」ことがある。ならば、我々も頭の「市場化」を時々止めるべきではないか。