悪い評価を受けないように頑張るしかなくなる
【江夏】100年ほど前のアメリカで、「科学的管理法」という、経営学のルーツとも言われる考え方が流行りました。その創始者がフレデリック・テイラーで、「経営学の父」と呼ばれることが多いです。それはまさに労働者の評価に関するもので、これくらい仕事をしたら、これだけ賃金を上げる、という図式を示したものでした。それによって、労働者の期待値を高め、働く意欲を高めようとしたのです。
当時のアメリカ企業の現場では職長と呼ばれる現場のドンみたいな人が絶大な権限を有していました。彼らはあたかも請負業者のような存在で、持ち場を回すために労働者一人ひとりの雇用、賃金、働く時間を決めていました。そこでは、「お前にはこれまで1日100個のノルマを課してきた。しかし明日からは125個にする。日給は変わらず1ドル。食いっぱぐれたくなかったら明日も来い」という理不尽な命令もまかり通っており、労働争議や労働者の大量離職が絶えませんでした。職長の権力濫用を抑え、労働者を留めるため、明確な管理ルールによって経営側がもっと現場に介入すべきだ、と説いたのが、科学的管理法だったのです。
この話は100年前のアメリカですが、今の日本人にとっても別世界の昔話にはできないように思えるんです。もちろん、彼の国の職長のようなあからさまな「悪人」はいないかもしれない。しかし、合意できる評価基準が重要であるという強い信念が今ひとつ確立されていないから、従業員側は悪い評価をもらわないように頑張るしかなく、疲弊してしまっていると。
仕事の範囲を明確化すれば「降りる選択」がしやすくなる
【海老原】さっきの命令は「おお、お前よく頑張ったな。明日からもっと頑張れ」というお笑いの世界ですね。会社のために、しっかり働くのはいいことなんですが、行き過ぎはよくない。右肩上がりの時代はそれでも報いられたからよかったのですが、今は違います。
【江夏】しっかり働くというのは無尽蔵に働くことではなく、合意されたことをきちんとやるということだと思います。経営合理性の範囲で会社は働く範囲を定め、従業員に提示しなさい、ということです。こういうことが当たり前になれば、従業員側も、相手からの期待、そして自分がそれに応えられる程度についてより明確に理解できるようになるから、今の就業機会への適応も、別の就業機会の探索も、行いやすくなる。
【海老原】そうした大人の関係になれば、納得ずくで長時間労働する人も残るし、逆に将来が見えて諦めたから家庭中心の人も生まれる。男・女という区別で前者は闇雲に働き、後者は家庭に尽くす、というような選択肢のない生き方からそろそろ脱すべき時でしょう。
【江夏】そう、結果として右肩上がりになる人もいるし、フラットな人もいる。それがいいと思います。
構成=荻野進介、海老原嗣生
1964年生まれ。大手メーカーを経て、リクルート人材センター(現リクルートエージェント)入社。広告制作、新規事業企画、人事制度設計などに携わった後、リクルートワークス研究所へ出向、「Works」編集長に。専門は、人材マネジメント、経営マネジメント論など。2008年に、HRコンサルティング会社、ニッチモを立ち上げ、 代表取締役に就任。リクルートエージェント社フェローとして、同社発行の人事・経営誌「HRmics」の編集長を務める。週刊「モーニング」(講談社)に連載され、ドラマ化もされた(テレビ朝日系)漫画、『エンゼルバンク』の“カリスマ転職代理人、海老沢康生”のモデル。ヒューマネージ顧問。著書に『雇用の常識「本当に見えるウソ」』、『面接の10分前、1日前、1週間前にやるべきこと』(ともにプレジデント社)、『学歴の耐えられない軽さ』『課長になったらクビにはならない』(ともに朝日新聞出版)、『「若者はかわいそう」論のウソ』(扶桑社新書)などがある。
2003年、一橋大学商学部卒業。2009年に博士(商学)を一橋大学より授与。名古屋大学大学院経済学研究科講師などを経て、2019年9月より現職。専門は人的資源管理論、雇用システム論。現在の研究関心は「公正な処遇」を可能にする制度設計と現場の運用、人事管理における実務界と研究界の関心の相違、人事管理の実務の改善に資する研究者の臨床的関与のあり方など。主著に『人事評価における「曖昧」と「納得」』(NHK出版)『人事管理』(有斐閣、共著)、『コロナショックと就労』(ミネルヴァ書房、共著)。