ドラゴンボールの第1話タイトルは「ブルマと孫悟空」

ドラゴンボールでも女性の活躍は続く。そもそも第1話タイトルが「ブルマと孫悟空」。語順に気をつけて見てほしい。「悟空とブルマ」ではない。

少年漫画なのだから、ブルマは悟空から武力で一方的に守ってもらう「か弱き存在」として描かれてもおかしくはない。だが彼女は、ホイポイカプセルで悟空を驚かせ、科学技術の恩恵に与らせる。実家の太さ、受けてきた高い教育、メカニックの腕前、経済力、行動力、それらで悟空をある意味、圧倒する。

ブルマは夏休みに一人でバイクを駆って、自作のドラゴンレーダーで宝探しの旅をする、アクティブで自立した女子高校生なのだ。悟空から「おまえ」と呼ばれると、失礼だからやめてと拒否する。あくまでも「孫くん」「あんた」と呼んで対等さを示し、一定の距離を置く。

そして山育ちで礼儀も衛生観念もない悟空に、パンやコーヒーといった人間世界の食べ物を味見させ、入浴と歯磨きを指導し、男女の別を教え、レディーの前では脱がないようにと教育する。Dr.スランプでは則巻博士とアラレちゃんにあった「教育者」と「無垢なる天才」という構図が、ドラゴンボール序盤ではブルマと孫悟空に置き換わっている。

漫画家の鳥山明が描いた主人公ベルゼバブが描かれた「サンドランド」の階段広告
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マドンナ、母親、天使――女性キャラは役割消費されがち

少年漫画の主人公は少年だ。当然、描かれる「女の子」はどうしても「客体としての女性キャラ」となる。例えば部活のマネージャー、憧れの先輩、争奪されるトロフィー、支えてくれた亡き母親などだ。

例えば映画『ONE PIECE RED』(2022年)には、CGで紅白にも出演した女の子キャラクター・歌姫UTAがいた。彼女は天才児で、父や師と仰いでいた男達から嘘を教えられて育ち、それに則って行動しただけなのに、最終的に物語全体の罪を負わされて自滅する。

UTAに歌声をあてたAdoとと楽曲群のすばらしさゆえにその悲惨さはあまり目立たないが、完全に捨て石だった。上げるだけ上げてから落とされて、いいところは少年ルフィが持っていく。愚かな女のしりぬぐいは大人の男シャンクスがしてくれる(騙していたのは彼らなのに)。21世紀になってもまだ少女はこんな使い捨ての駒として描かれるのか、と痛感させられた。