『ドラゴンボール』『Dr.スランプ』など国内外で愛される漫画を世に送り出した鳥山明さんが死去。鳥山さんの漫画を読んで育ったというコラムニストの藤井セイラさんは「鳥山さんの描く女性は絵柄の造形的にも自然で、その生き方もわが道を行くもの。男性の願望を反映した役割消費はされず、素直に共感できた。鳥山作品は時代の先を行っていたのではないか」という――。

「Dr.スランプ」という題名がアニメ化の際「アラレちゃん」に

幼稚園の頃、アラレちゃんが大好きだったわたしに父が教えてくれた。

「本当は『Dr.スランプ』っていう漫画なんだよ。でもアラレちゃんが大人気だから、アニメでは『Dr.スランプ アラレちゃん』になったんだ」

伊勢丹本店でトークショーに出席する声優の野沢雅子さん(右、悟空役)とアラレちゃん役の小山茉美さん、東京都新宿区、2017年5月2日
写真=時事通信フォト
伊勢丹本店でトークショーに出席する声優の野沢雅子さん(右、悟空役)とアラレちゃん役の小山茉美さん、東京都新宿区、2017年5月2日

女の子キャラの人気が出すぎて、作品タイトルが変わるだなんて! わたしは感動した。少年漫画雑誌に連載されていたのに、その人気で則巻千兵衛博士を食ってしまったアラレちゃん。それくらい鳥山明の描く女性キャラは、イキイキとして主体性があり、やんちゃで魅力的だった。

単なる絵的な「添え物」でもなければ、すべてを受け入れる寛容で忍耐強い「母」でもなく、高嶺の花の「マドンナ」でもない。泣き、笑い、怒り、知恵を働かせ、自分の意思で動いていく女の子キャラクター達。

『Dr.スランプ』は、フランケンシュタインを思わせる人造人間製造シーンから始まる。少女のサイボーグを則巻博士が接続している少しホラーな絵面で、先に完成しているアラレちゃんの頭部が「あ〜たいくつ」などとペチャクチャ喋り、博士がそれをウザったがる。ロボットなのに、いうことを聞かないのだ。

一人称が「オレ」のあかねちゃん、「クピポ」のガッちゃん

当初、博士とアラレは、ゼペットじいさんとピノキオのような、造物主と無垢な存在(タブラ・ラサ)という関係だった。しかし動きはじめたアラレちゃんは、ぶつかるものみなすべて壊す「キーン」というアラレちゃん走りと天才的頭脳、そして底抜けの明るさと怪力とで騒動を引き起こし、すぐさま博士の手には追えないペンギン村の人気者となる。

アラレちゃんの他にも、『Dr.スランプ』には印象深い女の子キャラが数多く登場する。不良ぶってはいるが根はいい子、一人称が「オレ」のクラスメイトあかねちゃん。その姉で喫茶店を経営する、客あしらいの上手い葵ちゃん。アラレの担任であり、則巻博士が恋する相手の山吹みどり先生。

それから「クピポ」と独自言語を話す、空飛ぶ破壊神ともいえる恐るべき赤ちゃん、ガッちゃん。サングラスで三輪車をかっ飛ばし「ナウい」「ダサい」と容赦なくなんでも批評する保育園児きのこちゃん。ちなみに彼女の前髪ぱっつんは、『Dr.スランプ』の連載開始より2年先にパリコレデビューした、当時のコシノジュンコそっくりである。

ドラゴンボールの第1話タイトルは「ブルマと孫悟空」

ドラゴンボールでも女性の活躍は続く。そもそも第1話タイトルが「ブルマと孫悟空」。語順に気をつけて見てほしい。「悟空とブルマ」ではない。

少年漫画なのだから、ブルマは悟空から武力で一方的に守ってもらう「か弱き存在」として描かれてもおかしくはない。だが彼女は、ホイポイカプセルで悟空を驚かせ、科学技術の恩恵に与らせる。実家の太さ、受けてきた高い教育、メカニックの腕前、経済力、行動力、それらで悟空をある意味、圧倒する。

ブルマは夏休みに一人でバイクを駆って、自作のドラゴンレーダーで宝探しの旅をする、アクティブで自立した女子高校生なのだ。悟空から「おまえ」と呼ばれると、失礼だからやめてと拒否する。あくまでも「孫くん」「あんた」と呼んで対等さを示し、一定の距離を置く。

そして山育ちで礼儀も衛生観念もない悟空に、パンやコーヒーといった人間世界の食べ物を味見させ、入浴と歯磨きを指導し、男女の別を教え、レディーの前では脱がないようにと教育する。Dr.スランプでは則巻博士とアラレちゃんにあった「教育者」と「無垢なる天才」という構図が、ドラゴンボール序盤ではブルマと孫悟空に置き換わっている。

漫画家の鳥山明が描いた主人公ベルゼバブが描かれた「サンドランド」の階段広告
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マドンナ、母親、天使――女性キャラは役割消費されがち

少年漫画の主人公は少年だ。当然、描かれる「女の子」はどうしても「客体としての女性キャラ」となる。例えば部活のマネージャー、憧れの先輩、争奪されるトロフィー、支えてくれた亡き母親などだ。

例えば映画『ONE PIECE RED』(2022年)には、CGで紅白にも出演した女の子キャラクター・歌姫UTAがいた。彼女は天才児で、父や師と仰いでいた男達から嘘を教えられて育ち、それに則って行動しただけなのに、最終的に物語全体の罪を負わされて自滅する。

UTAに歌声をあてたAdoとと楽曲群のすばらしさゆえにその悲惨さはあまり目立たないが、完全に捨て石だった。上げるだけ上げてから落とされて、いいところは少年ルフィが持っていく。愚かな女のしりぬぐいは大人の男シャンクスがしてくれる(騙していたのは彼らなのに)。21世紀になってもまだ少女はこんな使い捨ての駒として描かれるのか、と痛感させられた。

ブルマの冒険少女、仕事、子育て、経営者というキャリアパス

しかしブルマは違う。第1話から登場し、主人公とコミュニケーションを取り、ドラゴンボールという宝物の存在を悟空に教え、冒険のきっかけをつくる。ページにつねに出ているわけではないが、物語世界のどこかで生きていて、何か発明品を持って戻ってきては、悟空達を支える。ブルマは女性の目から見ても納得のいくライフステージの変遷をたどった。

恋する冒険少女の時代を経て(ヤムチャとつきあっていた)、仕事のできる大人となり、恋愛よりはむしろ憐憫の情からベジータと結ばれて息子(トランクス)を産み、育児をし、父・ブリーフ博士から家業のカプセルコーポレーションを継ぎ、子どもの手が離れ、また仕事がノッてくる時期までもが描かれる。

やがては会長職に就いて経営手腕を見せながらも、エンジニアとして手を動かす原点も忘れない。ブルマは年齢とキャリアにあわせ、髪型も服装も変わっていく。それなりにお金はかけていそうだが機能性を優先したファッション、流行を取り入れつつ意思の強さを感じさせる髪型、足元は動きやすいブーツが多かった。

「おっぱい要員」的な造形もなく、女性も読みやすかった

胸の大きさも自然だ。ドラゴンボールにも胸の大きな女性は登場するが、さまざまだ。やはり前述のONE PIECEでは、少女と老婆(醜さが強調されることが多い)以外の現役の女性は、人体の構造上これは無理だろうというレベルで胸が大きく、それを強調する衣装も多い。おっぱいのインフレーションが起きている。細い腰骨が折れないか心配になる。

ママ友が「最近のジャンプって油断するとめちゃくちゃおっぱいの大きい女の子が出てくるので、気軽には(息子に)買えない」と話すのを聞いたことがある。神経質と思われるかもしれないが同感だ。女性にはそう感じる人もいるのだ。

ナビゲーター的女性キャラは冨樫義博「幽遊白書」などにも

そういえば、鳥山明以外でも物語をナビゲーションする女性キャラの登場するジャンプ作品があった。冨樫義博の『幽遊白書』と『HUNTER×HUNTER』だ。前者では水先案内人が女性キャラであるし、後者は壮大で複雑な物語で、美女や小悪魔はもちろん、賢者や間者といったバラエティ豊かな女性キャラクターが登場する。彼女達の性格も、プロポーションやファッションも実にさまざまだ。

そういえば冨樫義博はその妻が『セーラームーン』の武内直子であるし、鳥山明もみかみなちという先輩漫画家と結婚している。時に制作を手伝うこともあり、「かめはめ波」を名づけたのも彼女だという。家庭内に対等かつ尊敬できる同業者がいるというのは、二人の共通点として挙げられるだろう。

プリキュアの20年前に、「ケア労働」から自由な女性を描く

ドラゴンボール』にはブルマだけでなく、他にも個性ある女性達が登場する。例えば一見おしとやか、男性の理想を引き受けたマリリン・モンロータイプに見えるランチさんは、「くしゃみ」がスイッチとなり別人格が表に出て銃を乱射する。また半ばおしかけ女房のように孫悟空の妻となり、悟飯という子をなして、しっかり教育を施すチチなどだ。

女性だってランチさんのように暴力性を発露することもあるし、チチのように家庭において夫をコントロールすることもあるのだ。

『ドラゴンボール』はその人気ゆえ、連載が長期化し、修行や冒険よりバトルが主軸となっていく。登場する女性キャラの数は相対的には少ない。それでもキラッと光る女性キャラクターが幾人もすぐに思い浮かぶのは、彼女達が「ケア労働」、つまり癒しや家事育児の担い手「のみ」としては描かれなかったからだろう。

「女の子だって暴れたい」をコンセプトに大ヒットした「プリキュア」シリーズが生まれたのが2004年。その20年以上も前に、鳥山明は自分の意思を持って生きる女性像を、少年漫画の中でごく自然に描いてくれた。

血統主義、血縁主義からは遠い、柔軟な家族観とキャラ造形

そもそもアラレちゃんと則巻博士は血のつながらない家族だ。孫悟空も山で拾われた孤児である。悟空の息子・孫悟飯は、両親のもとではひ弱なお坊ちゃんだったが、ナメック星人のピッコロに育てられて大きく成長する。ピッコロにいたっては卵生で「親の愛」など知らないはずだが、悟飯を身を呈して守る。

女性観だけでなく、家族観や子ども観もまた柔軟なのかもしれない。父はこうあるべき、母はこうあるべき、子とはこうあるべき、という固定観念から自由な世界がそこにはあった。血統主義、血縁主義ではないのである。

少女漫画も恋愛の成就で物語が終わってしまい、女性の「その後」を見せてくれるものが少なかった子ども時代に、天才で怪力で奔放なアラレちゃんや、仕事と家族の充実を体現するブルマを見ると、何かスカッとする思いを抱いたのを覚えている。あの感覚は、いまにして思えば「エンパワメント=本来持っている力や才能を気づかせて開かせようとする作用」だったのかもしれない。

おきまりの言い方になるが、ようやく時代が、鳥山明がナチュラルに描いていたこの家族像、女性像、子ども像に追いついた、とも感じられる。これから先のクリエイターにとっても、彼の偉大な作品は折にふれてヒントをくれるものとなるだろう。