笠置シヅ子は本当に1956年大晦日の紅白歌合戦で歌手活動を止めたのか。『笠置シヅ子 ブギウギ伝説』を書いた娯楽映画研究家の佐藤利明さんは「実は笠置のラストステージは舞台だった。ブギの女王と呼ばれた笠置は、1957年の年明けに歌手引退を宣言し、5月の引退公演では意外なジャンルの楽曲に挑戦した」という――。

「東京ブギウギ」発売の9年後、笠置は歌手を辞めることを決断

連続テレビ小説「ブギウギ」(NHK)がクライマックスを迎えた。笠置シヅ子をモデルにした「ブギの女王」福来スズ子(趣里)の前に、次世代の若手歌手・水城アユミ(吉柳咲良)が現れる。時は昭和31年(1956)、経済白書が「もはや戦後ではない」と記し、世の中がダイナミックに変化してきていた。

石原裕次郎がデビューし、エルビス・プレスリーが「ハートブレイク・ホテル」をリリースしたのもこの年。若者たちの音楽はロックンロールとなり、流行歌では美空ひばり、江利チエミ、雪村いづみの「三人娘」が溌剌はつらつさで人気を博していた。「ブギの女王」笠置シヅ子の時代が、ゆるやかに終わりを告げ始めていた。

美空ひばり
美空ひばり『サンケイグラフ』1954年8月1日号(産業経済新聞社/PD-Japan-oldphoto/Wikimedia Commons

さて話は1947年(昭和22)にさかのぼる。敗戦後、長くつらい戦争が終わり、疲弊した焼け跡の人々にとって、笠置シヅ子の「東京ブギウギ」(作詞・鈴木勝 作曲・服部良一)の明るい歌声、パワフルなパフォーマンスは、最高の「復興ソング」となった。歌詞の「ズキズキ」は、何もかも喪失していた人々の胸の痛みであり、それを「ワクワク」に変える魔法のリズムが「ブギウギ」だったのである。

それから9年の歳月が流れ、40代を迎えた笠置シヅ子は、全盛期のような全身全霊のパフォーマンスは「ああ、しんど」となっていた。1956年1月、有楽町・日劇で上演された「爆笑ミュージカルス」の主題歌「たよりにしてまっせ」(作詞・吉田みなを、村雨まさを)」と「ジャジャムボ」(作詞・村雨まさを)をリリース。いずれもマンボ・アレンジが際立っていて、よりリズムが強調されている。これが、彼女にとって最後の新曲レコードとなった。

1956年末のNHK紅白歌合戦では4度目の出場で大トリに

さて、笠置シヅ子と服部良一のコンビは「ブギウギ」ブームの後も、ジャズのビバップを取り入れ、マンボ、コンガなど、次々とニューリズムをアレンジして最先端の音楽であり続けていた。しかし時代は大きく変わりつつあった。

それが1956年である。笠置シヅ子はこの年の大みそか「第7回NHK紅白歌合戦」に4度目の出場を果たした。しかも紅組の大トリとして東京日比谷の宝塚劇場のステージに立った。歌ったのは、1948年(昭和23)4月にリリースした「ヘイヘイブギー」(作詞・藤浦洸)だった。

このとき、50組の歌手が出場した。淡谷のり子、二葉あき子、渡辺はま子、ディック・ミネ、霧島昇、灰田勝彦など戦前からのベテランに加え、越路吹雪やペギー葉山、三橋美智也といった戦後のスターも登場。小坂一也がプレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を歌ったのが象徴的である。