源氏物語』は恋愛小説として優れているだけでなく、当時の現実に基づいたハイレベルな宮廷文学だったとも言われる。三重県斎宮歴史博物館学芸員である榎村寛之さんは「紫式部が仕えた中宮彰子の夫、一条天皇は、紫式部が歴史というものをしっかり見極め、『どこかにある日本』のリアルな歴史ファンタジー小説を創ったと分析した」という――。

※本稿は、榎村寛之『謎の平安前期』(中公新書)の一部を再編集したものです。

皇后定子の死去後も紫式部らインテリ女性が後宮で活躍した

では定子が亡くなり、清少納言が過去の人となるとこういう体制(後宮で女性の教養を重視する傾向)は失われたのか、私はそうではないと思う。『栄花物語』では、藤原彰子の入内の際に女房40人が付いて、その選抜は、見てくれや心持ちも当然のこととして、四位・五位の娘でも、物腰の清らかさや、教養の現れ方を重視したとある。

このような吟味されたサロンが彰子の周りにも形成され、その中に、漢字の一つも知らぬような顔をしている漢文学者の娘(紫式部)や、故実の家である大江氏の情報を利用して宮廷政治史を本(記録)にまとめようとする歴史家(赤染衛門)、恋の歌を詠ませればただただ天才(和泉式部いずみしきぶ)といった個性豊かなブレーンが集まってくる。

寛弘5年(1008年)、藤原彰子が敦成親王を産んだ後の「五十日の祝い」の宴席場面。
寛弘5年(1008年)、藤原彰子が敦成親王を産んだ後の「五十日の祝い」の宴席場面。藤原公任が「この辺りに若紫は居られませんか」と戯れに尋ねる。作者不明「紫式部日記絵巻」(鎌倉時代、五島美術館蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

古来王権を讃えるのに必須の事項は、神話物語と歴史記録と神語りの歌謡であった。漢文教養が爛熟らんじゅくし、神話は仏教に、歴史書は故実の日記に、歌謡はテクニックを競う和歌に姿を変え、教養人としての文人が形骸化していく社会において、彼女たちは学問の家から選抜されたエリートだった。

勧修寺かじゅうじ流藤原氏出身の紫式部(理想化された仮想宮廷物語)、大江匡衡おおえのまさひらの妻の赤染衛門あかぞえもん(実録歴史物語)、大江氏の生まれの和泉式部(規範にとらわれない天才歌人)という形で王権を語る女性たち、この三人を擁していたこと自体、彰子のサロンが定子の経験と実績を受け継いだものだったといえるのではないかと思う。

彰子サロンの女房は清少納言ほど知性をアピールしなかった

しかし彼女らは、清少納言のように、ピエロ的に思えるほど知性をアピールする必要はなく、むしろそれを抑制することで中宮彰子を宮廷内の重鎮としようとしていたようにも思われる。だからこそ紫式部は「ことさらに賢ぶって漢字なんか書き散らしているけど、不足しているところも多い。こんなにも目立ちたがる人の行く末はろくなものじゃないね」と清少納言を、いや、その向こうに透けて見える男性貴族社会と真正面から向き合った定子サロンを否定したのではなかったか。

そして彰子のサロンもまた男性社会に唯々諾々いいだくだくと従っていくものではなかった。『源氏物語』における理想の貴族像として描かれるのは、実務派で国家の重鎮となる源氏の長男、夕霧ゆうぎりである。その姿や源氏の教育方針には、不遇な学者であった父、藤原為時への想いが込められ、また門閥もんばつ貴族社会への痛烈な皮肉が垣間見える。