追い詰められ「人間五十年」と舞った信長は清洲城から出馬

この時、信長は敦盛の舞に興じた。

「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。ひとたび生を得て、滅せぬ者のあるべきか」

歌い舞わると、「法螺貝ほらがいを吹け、武具をよこせ」と言い、鎧をつけ、立ったまま食事をとり、兜を着用して、五人の小姓衆だけを伴って清洲城から出馬した。

つまり、世間話だけをして軍議に意見を出さなかったのは、斯波義銀であって、信長ではなかった。そして信長も場を丸く収めようとする空気に押されて、強く意見できなくなり、酒席では御屋形様おやかたさまの顔を立てて沈黙することになった。

夜遅くに信長が退出すると、家老衆は今川義元様がこの城を囲んだら、「あとはあの信長を始末するだけだ、ここまでよくやってきたが、運が尽きると知恵の鏡も曇るものだな」と、今川軍の侵攻を他人事ひとごとのように思いながら、笑いあった。

ところが信長は、最前線にある味方の窮地を見捨てるような守護主従の様子から、全てを察したようである。このままでは寝首をかれると判断し、ほとんど逃げ出すようにして、わずかな供回りだけを連れて、清洲城を抜け出したのだ。

そして、出先で味方の者たちと連携して、思いつくまま臨機応変に戦場を駆け巡り、しかも思わぬ大雨に助けられて、信長が最前線に飛び出てくると予想していなかった今川義元の首を討ち取ったのである。

歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治15年(1882)【部分】
歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治15年(1882)【部分】(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

今川義元の戦死は清洲城が招いたようなものだった

斯波義銀の態度は、例えるなら、最初に記した豊臣秀頼が、最前線に出た大野治長、真田信繁らを見捨てて、「あれは勝手に主戦派たちを糾合した不忠の者たちです。われらははじめから幕府との親睦を第一に考えておりました」と徳川家康に尻尾を振るようなものであった。

もっとも家康にとっての秀頼は、義元にとっての義銀ほどの価値もないから、内応を打診されなかったのだろう。交渉の手筋もなかった。

清洲城は、守りの固さが今にあまり伝わっていないが、応永12年(1405)に築城されたところから考えて、単なる経済と政治の拠点としてではなく、確たる防御設定をもって、150年以上その威容を保ち続けていたことだろう。本丸東の五条川が水堀の役割を果たしていたと思われ、それなりに工夫を凝らしていたからこそ、家老衆も信長をだまし通せると思ったのではないか。

こうした視点から見ると、中世清洲城の姿形も「名城」の称号に相応しい防御力を備えていた可能性が高いと思う。

そして、その防御力の高さゆえに、今川義元は斯波主従が信長を拘束して、尾張制圧を首尾よく進める計画を過信してしまったのではないか。

その結果、義元は思わぬ戦死を遂げてしまい、誰もが想定しえない驍将ぎょうしょう・織田信長の雄飛ゆうひを許すことになってしまったわけである。

歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治15年(1882)【部分】
歌川豊宣「尾州桶狭間合戦」明治15年(1882)【部分】(写真=CC-PD-Mark/Wikimedia Commons
乃至 政彦(ないし・まさひこ)
歴史家

香川県高松市出身。著書に『戦国武将と男色』(洋泉社)、『平将門と天慶の乱』『戦国の陣形』(講談社現代新書)、『天下分け目の関ヶ原の合戦はなかった』(河出書房新社)など。新刊に『謙信×信長 手取川合戦の真実』(PHP新書)、『戦国大変』(日本ビジネスプレス発行/ワニブックス発売)がある。がある。書籍監修や講演でも活動中。 公式サイト「天下静謐