清洲城での軍議で信長は味方がなく孤立していた
なお、この不自然な省略のやり方に疑問を感じる人がいるかもしれないが、例えば、牛一は『信長公記』の手取川合戦のくだりで、織田の大軍が手取川を北上したところを、その南側にある村々を焼き払って引き上げる内容になっており、大きな矛盾が生じている。手取川の北に移ったのに、なぜその南側にワープしているのか。
手取川を越えたあと、織田軍は何らかの事情があってその南側へ移動して、本来織田の勢力圏内にある村々を焼かなければならなくなった。牛一はそれを隠蔽するかのように、はじめ正確に書いたであろう文章をあとから部分的に削ったものと考えられる。牛一は漫画『鬼滅の刃』の竈門炭治郎ばりに嘘をつくのが下手なので、内容を作り話で塗り替えることができず、ただ自分の方針に沿わないところをさっくり消したのである。
こうした牛一の執筆姿勢も勘案すると、首巻が本当に描きたかった情景は次のようであったと考えられる。
18日の夜、佐久間盛重・織田秀敏が、清洲城に「今夜、今川方は大高城に兵糧を運び入れた。こちらの援軍が来る前に明日の朝の潮の満ち引きを考え、鷲津と丸根の砦を攻撃する動きとみて相違ありません」と報告してきた。
その夜、信長は、清洲城の軍議で、「尾張の国境で義元と決戦しよう。国境を蹂躙され、このまま撤退させてはならない」と主張した。
「運の尽きる時には知恵の鏡も曇る」と嘲笑された信長
すると、上座の守護・斯波義銀の家老之衆は、まるで一味同心しているかのように「今川軍は4万5000の大軍で、こちらはその一割未満。清洲城はとてもよくできた名城であるので、機が熟するまで籠城してから打って出るのが最善だ」と言い返した。
信長はこの意見に同意しなかったが、「最近では河内国の安見右近丞は野戦を避けるようになってから没落していったではないか」と不満の声を漏らすばかりであった。
上座の斯波義銀は、作戦について一切触れることなく、世間話だけをして、一同に盃を交わした。
空気が冷えているのを感じ取った猿楽者・宮福太夫は「このまま酒席が静かであってはいけませんね」といって謡を披露し、信長も鼓を打って調子を合わせた。
酒席は大いに盛り上がり、義銀が「そろそろ夜も更けたから退出してよい」と許可を出したので、信長は退出した。
これを見た家老たちは「運の尽きる時には、知恵の鏡も曇るというが、まさにこれだ」と、皆で信長を嘲笑って帰宅した。
予想どおり、夜明け方、佐久間盛重・織田秀敏から「すでに鷲津・丸根の砦が今川方の攻撃を受けている」との報告が入った。