ワインスタイン事件では「性暴行」など端的な言葉が使われた
アメリカでMeToo運動を実践する形となったワインスタイン事件でよく使われるのは、性暴行(sexual assault)や性的虐待(sexual abuse)など、出来事をそのまま表す言葉だ。被害者をモノ化するようなインパクトのある表現は使わなくても、証言などを通じて文章の中で説明することによって、事件の問題性は十分、社会に浸透させることができる。
アメリカでは、性暴力の被害者が実名・顔出しで、被害経験を公的な場で語って聴衆に勇気を与え、サバイバー、またヒーローとして、社会から尊敬と賞賛を得ていることが珍しくない。被害者がこのように表に出て堂々と発言することと、被害者をモノ化するような表現が大手を振って流通していないことは、どこかでつながっていると思う。
もちろん被害者が顔を出すべきだということではない。でも日本のように、被害者を、同じ人としての地点からモノの位置に引きずり降ろすような表現の仕方が発達している社会で、被害者がバッシングに遭うことなく、胸を張って講演し聴衆に感銘を与えるようなことが、どれだけ実現するのだろうか。
特に性暴力は、権力勾配のある中で起きることが多い。それを今までのように、加害者側の視点で、事件や被害者を見るような表現を続けていて、本当に加害の構造が変えられるのだろうか。被害者が声を上げやすい社会をつくるためにも、被害者の目線に立った表現や報道が、もっと主流になっていくべきだ。
コーネル大学Ph. D.。90年代前半まで全国紙記者。以後海外に住み、米国、NZ、豪州で大学教員を務め、コロナ前に帰国。日本記者クラブ会員。香港、台湾、シンガポール、フィリピン、英国などにも居住経験あり。『プロデュースされた〈被爆者〉たち』(岩波書店)、『Producing Hiroshima and Nagasaki』(University of Hawaii Press)、『“ヒロシマ・ナガサキ” 被爆神話を解体する』(作品社)など、学術及びジャーナリスティックな分野で、英語と日本語の著作物を出版。