家康が鐘事件を利用して豊臣を追い詰めたとされてきたが…
拙著『戦国武将、虚像と実像』で指摘したように、江戸時代に徳川家の側から同事件を叙述した歴史書などが、片桐且元を取り込むなど豊臣家の分断を図った家康の権謀術数を称賛したため(江戸時代の価値観では大坂の陣は家康による謀反鎮圧であり、正当な軍事行動である)、近代以降、主家の豊臣家を陰謀で追いつめた徳川方の横暴として実際以上に印象づけられることになった。
後世の史料の脚色を排して、『駿府記』など良質の史料に基づく限り、家康の同事件への対応はことさらに豊臣家を挑発したものとは言えず、常識的な政治交渉の範疇に収まると評価できよう。
通説では大坂冬の陣において、真田信繁・後藤基次らは宇治・勢多進出作戦を提案したが、豊臣家首脳部の反対により籠城策に決した、とされる。けれども、大坂冬の陣での宇治・勢多進出作戦の初出史料は、現在確認されている範囲では実録『難波戦記』である。史実とはみなしがたい。
徳川家康のブレーンである金地院崇伝が細川忠興に送った書状には「大坂城中には有楽(織田有楽斎)・大野修理(治長)・津田左門(織田頼長、有楽斎の子)、かようの衆取持にて、牢人衆引き籠もり、籠城の用意と相聞え候」(『本光国師日記』慶長19年10月19日条)とある。大坂方は最初から籠城の準備を進めている、というのが徳川家の認識だった。
豊臣には籠城策しかなく、真田信繁も一武将にすぎなかった
真田信繁が九度山を出たのは10月9日であり(「蓮華定院覚書」など)、大坂入城は10日頃と考えられる。徳川家康は10月6日には本多忠政ら近畿の大名に出陣を命じており、忠政らは16日頃には伏見に着陣している(「譜牒餘録」など)。
慶長5年(1600)七月、挙兵した石田三成ら西軍数万は、徳川家康の家臣である鳥居元忠ら2000人が籠もる伏見城を攻撃したが、10日以上かけてようやく攻略している。大坂冬の陣当時、伏見には家康が置いた城代(松平定勝)がおり、本多忠政らの着陣前に真田信繁らが伏見城を落とすだけでも至難の業だろう。宇治・勢多進出案は時間的余裕を考えると現実的ではなく、豊臣家としては大坂城の防備強化に専念するしかなかったというのが実情ではないだろうか。
この挿話は、真田幸村を軍師と位置づけるために生み出されたものと思われる。現実の真田信繁は現場指揮官の一人にすぎなかった。幸村を軍師にするには、大坂方の戦略・作戦を立案する場面を作る必要があったのである。