家康は正当な交渉で秀頼に大坂城を明け渡すよう要求した

以上の経緯から分かるように、家康は甘言によって大坂方をだますようなことはしていない。家康は徳川家の面子が保てる形の和睦を望んでいた。後で反故にするつもりなら大幅に譲歩して妥結すれば良いのにそうしなかったのは、和睦が成立したときには遵守する意思を持っていたからだろう。

呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)
呉座勇一『動乱の日本戦国史 桶狭間の戦いから関ヶ原の戦いまで』(朝日新書)

20日に家康が秀頼に与えた誓詞では、牢人の罪は問わない、秀頼の身の安全と知行を保証する、淀殿を人質として江戸に差し出す必要はない、大坂城を秀頼が明け渡すならば望み次第の国を与える、といった条項が定められている(『大坂冬陣記』)。一方、秀頼も22日に家康に誓詞を提出し、今後は家康・秀忠に謀反の心を持たないこと、噂に惑わされず不審なことがあれば家康に直接問い合わせることを誓っている(『大坂冬陣記』)。

この誓詞の内容だけを見ると、豊臣家にかなり有利な和睦と言えるが、土佐藩山内家に残る覚書では、大坂城惣堀を埋めること、牢人を召し放つことも秀頼側が約束したという。徳川家から見れば、豊臣家の今回の挙兵は「謀反」に他ならず、豊臣家が何も失わずに現状維持ということになれば、天下を治める徳川家の威信に関わる。

実際、『大坂御陣覚書』によれば、和平会談で家康側は「大御所様(家康)自ら出馬して、何も得ずに和睦しては、武門の名誉に傷がつく」と主張している。また、反乱の再発防止のためにも、大坂城の無力化と牢人衆の追放は必須だった。

豊臣家が臣下の礼をとりさえすれば、滅ぼす必要はなかった

これらを踏まえると、和睦内容のうち、直ちに履行すべき事項は、徳川家による秀頼の地位確認と牢人の赦免、関東方・大坂方双方による大坂城の堀の埋め立てであったと言えよう。秀頼の転封や秀頼あるいは淀殿の江戸在住を家康が強制しなかったのは、豊臣家の面目への配慮であり、最終的には豊臣家に受け入れさせようと考えていたと推測される。

豊臣家の武力では、牢人衆の追放という条項を履行するのは困難である。となると、代わりに秀頼の転封、もしくは秀頼・淀殿いずれかの在江戸を受け入れるほかなくなる。この条件が実現すれば、豊臣家が家康に臣従したことが明確になる。片桐且元の三箇条の提案からもうかがえるように、大坂の陣は、豊臣家を臣従させるために家康が起こした戦争である。逆に言えば、豊臣家が臣下の礼をとりさえすれば、豊臣家を無理に滅ぼす必要は家康にはなかったのである。

呉座 勇一(ござ・ゆういち)
国際日本文化研究センター助教

国際日本文化研究センター機関研究員。1980年、東京都生まれ。東京大学文学部卒業。同大学大学院人文社会系研究科博士課程修了。博士(文学)。48万部突破のベストセラー『応仁の乱』のほか、『戦争の日本中世史』『頼朝と義時』『一揆の原理』など著書多数。