家康は世界情勢についてアダムスらを質問攻めにした
質疑応答は真夜中まで続いたようである、政務に多忙な家康がこれほどの時間を費やしたことにアダムスたちへの興味の深さが窺える。2日後、家康はアダムスたちを再び呼び出し、世界情勢について質問攻めにした。家康から気に入られたように思われたアダムスだったが、それから1カ月以上呼び出しはなく、アダムスたちが軟禁されていた場所には外の情報も一切入らなかった。「このあいだ私は毎日のように磔にされると思っていた」とアダムスはのちに書いた「未知の友人」宛の書状で当時抱いた不安を振り返っている。
実はこの間、イエズス会士たちは家康やその側近に、「リーフデ号の船員たちを生かしておけば家康や日本の不利益になる」とその処刑を訴え続けていた。疑い深い家康に対するこのような働きかけは逆効果を引き起こし、イエズス会士に対する不信感を募らせる結果を招いた。
家康はついに「今のところ、彼らは、私あるいは日本の誰にも危害や損害を与えていないので、彼らを処刑するのは道理や正義に反する。双方が互いに戦争をしているのであれば、それは彼らを死刑に処する理由にはならない」と回答した(アダムスより「未知の友人」宛書状)。この回答から、家康が当時のカトリック諸国とプロテスタント諸国とのあいだの対立状況をよく理解していたことが窺える。
家康はアダムスを気に入って厚遇したが帰国は許さず……
アダムスに三度目の呼び出しがかかったのはそれから41日後のことである。家康は再び様々な質問をし、尋問が終わりに近づくとアダムスに「あの船に乗って同胞に会いたいか」と尋ねた。「ぜひとも喜んで」とアダムスが答えると、「では、そうしてくれ」と家康は言った。この瞬間、アダムスは何とも言えない安堵感を味わったことだろう。実はこの時、家康はリーフデ号とその船員たちを堺に移動させていた。アダムスたちは涙を流して再会を喜んだという。
とはいえ、その後も、家康はアダムスに出国することを禁じた。アダムスがいくら懇願しても許されなかった。それどころか、アダムスは家康の家庭教師のような存在となり、幾何学、数学やそのほかの学問の初歩を教えた。学問に少なからぬ関心を示していた家康は大変喜び、アダムスとの距離がどんどん縮んでいった。アダムスを師として尊重するあまり、家康はすべてをアダムスから言われた通りに受け取るようになったという(アダムスより「未知の友人」宛書状)。こうして家康とアダムスのあいだに揺るぎない信頼関係が築かれた。