家康は将軍相手でも忖度しないアダムスを高く評価した
この時代、家康に面会できる人といえば、旗本以上でないとまず不可能であった。船乗りだったイギリス人のアダムスが旗本の位と三浦半島にある逸見の領地を与えられ、常に家康の側に仕えるようになったことは並大抵のことではない。なぜそのようなことが可能だったのだろうか。それが家康の性格と政治手腕に起因していると筆者は考える。
当時の史料を読むと、アダムスは豊富な知識をもった真面目で誠実な人であったようだ。また、相手が誰であろうと、納得がいかないことは受け入れず、自分の立場が悪くなってもそれを正直に相手に伝える性格の持ち主だった。人のために尽力と骨折りを惜しまず、最後まで使命を果たそうとする姿勢を示していた。
こうした気質は家康からの評価が高く、有能な人材を自分の周りに置くことを心がけていた家康にとって是非とも側近として迎えたい人物であった。家康はアダムスをあまりにも気に入ったため、晩年にアダムスによる出国のさらなる請願に屈した後でさえ、自分の側から離れないようにアダムスに懇願した。それほど家康はアダムスを寵愛していた。
西洋の列強に対抗するためアダムスに洋式帆船を造らせた
対外政策を進める家康にとってアダムスは必要な人材だった。グローバル化が進むなか、西洋列強が次々と船を日本に派遣し始めた。家康は自由貿易を促進することで国内経済を活性化しようとしていた。そのために、アダムスを通じて世界情勢について情報を収集したかった。
また、日本の造船技術を高めて、日本人によるさらなる海外進出を可能とする基盤をつくろうとした。アダムスとその仲間のオランダ人の船大工に2隻の洋式帆船を造らせることで、西洋の造船技術を積極的に採り入れ、朱印船貿易で使用されるジャンク船の造船にその技術を活用した。さらに、オランダやイギリスの使節が家康のいる駿府城を訪れると、アダムスがその仲介役をつとめ、両国とも平戸で商館を設立することになった。