スペイン使節が江戸湾を測量する危険性を家康に訴えた
家康が特に熱望したのはスペインとの交易であった。スペイン使節は貿易の実現と引き換えに、当時スペインの戦争相手だったオランダ人を日本から追放することを家康に強く要請し、揺さぶりをかけた。家康はこのスペイン側からの揺さぶりをうまくかわしながら、中立的姿勢を保った。とはいえ、辛抱強く交渉を続けた。
その過程でスペイン使節のセバスチャン・ビスカイノが「江戸湾の測量」を願い出た時には、その許可を与えた。これはスペイン船が安全に江戸湾に入ることができるために必要な申し出だったが、これを知ったアダムスは、若かりし頃スペイン艦隊が母国イギリスを侵略しようとしたときのことを思い出した。そのスペイン艦隊との海戦の際、アダムスはイギリス艦隊の補給船の船長として戦いに参加していた。
アダムスは家康のもとに駆け付け、「スペイン人が江戸湾を測量する目的は、いずれ大艦隊を率いて侵略するための準備だ。私の母国であるイギリスならば、他国による海岸の測量は絶対に許さない」と進言した。家康が「今さら断るのは面目が立たない。たとえ攻め込まれても防衛のための兵力は十分にある」と弁明すると、アダムスはさらに「まず宣教師を送り込み、その国の多数の国民をキリスト教徒に改宗させ、その後スペイン人がそのキリスト教徒と共謀してその国を征服し、スペイン国王の領有地とする」のがスペイン人の策略なのであると訴えたという(スペイン使節ディエゴ・デ・サンタ・カテリーナの報告書)。
家康がキリスト教禁教令を出すきっかけを作った
すでにキリスト教布教に疑念を抱いていた家康は、その直後に駿府城に多くのキリシタンが存在することを知り、禁教令の布告に踏み切った。のちに秀忠と家光が進めていく鎖国体制への第一歩であった。
その後、家康から帰国の許しが出たにもかかわらず、アダムスが母国イギリスへ戻ることはなかった。イギリス東インド会社重役宛の書状では「現金を貯めてから帰りたい」と書いているが、日本に完全に馴染んでいたアダムスは同胞から「帰化した日本人」と呼ばれるほど日本人になっていた(イギリス使節ジョン・セーリスの航海日誌)。日本では家康の側近として重要な役割を果たしていたが、イギリスに帰れば一介の船乗りに戻ってしまう。そのような認識があったのか、アダムスは帰国を先延ばしにし続けた。