報告を受けた徳川家康はアダムスらを大坂に召し出す

海賊船であれば、直ちに処刑を宣告すべきである。しかし、どうやらこの船は普通の海賊船ではなさそうだ。スペイン・ポルトガルのほかにも、日本に来航できる「南蛮」の国があるようだ。そのように家康は考えたのではなかろうか。長崎奉行に任せず自ら調査することに決めた家康は、さっそく家臣を豊後に遣わすとともに、当該船の主立った船員二人を大坂に連れて帰るように命じた。

18人しか残っていなかった乗組員のうち、船長は病で動けなかったため、船長に次ぐ階級であった舵手と一人の商人が代わりに大坂へ向かうことになった。舵手は、オランダ人に雇われた有能なイギリス人航海士ウィリアム・アダムスで、彼に同行する商人はオランダの名家の出であるヤン・ヨーステンであった。大坂に到着してすぐにアダムスとヨーステンは家康の前に召し出され、尋問を受けた。

最初は身振り手振りを交えて尋問したが、思うように伝わらないため、ポルトガル語が話せる人を通訳にして質問をすることにした。その尋問から家康の世界知識が一気に広がった。それまでアジア諸国についてはある程度の情報を得ていたが、そのほかの情報としては、さらに遠方にあるポルトガルとスペインという国々からアジアへ定期的に船が往来していること、ポルトガル人はインドのゴアや中国のマカオに拠点をもち、スペイン人はアメリカ大陸やフィリピンを植民地にしていることぐらいしか分かっていなかった。

宣教師を派遣したスペイン・ポルトガルとイギリス・オランダは戦争中

そこに、さらに遠いところにイギリスとオランダという国々があって、それらの国々がイベリア諸国と戦争状態にあるということをアダムスは家康に伝えた。ここで初めて軍艦が武装している理由も判明した。アダムスが乗っていた艦隊はアジアへ航海する途中、交戦相手国のスペインとポルトガルが支配する海域を通過する必要があり、敵と戦うために武装していたという。

艦隊所属の5隻のうち、日本にたどり着いたのはリーフデ号1隻だけだった。リーフデ号の乗組員は総勢110人いたが、この時点で生き残っていたのは18人だけだった。全渡航期間は2年もの年月にわたり、航海中は伝染病の蔓延、食糧不足やイベリア人との闘いを経験し、想像もつかないほどの悲惨な渡海であった。