※本稿は、黒田基樹『羽柴家崩壊 茶々と片桐且元の懊悩』(平凡社)の一部を再編集したものです。
2カ月ぶりに政権トップの座に返り咲いた家康
慶長5年(1600)9月15日、美濃関ヶ原において、羽柴政権を二分しての、空前の大合戦となった、いわゆる関ヶ原合戦が行われた。合戦の結果、「大老」筆頭の徳川家康を総帥とする江戸方が勝利し、「大老」毛利輝元を総帥にした大坂方は敗北した。大坂方の戦場での大将であった「大老」宇喜多秀家、さらに大坂方の首謀者であった奉行石田三成らは逃亡(三成は21日に捕縛、次いで処刑される)、もう一人の首謀者の奉行大谷吉継は戦死するなど、大坂方の大敗であった。
勝利した徳川家康は、大坂城に向けて進軍、17日に石田三成の本拠近江国佐和山城を攻略し、その日に江戸方大名の福島正則・黒田長政に命じて、大坂城の毛利輝元に、輝元に対して疎略にしない意向にあることを伝えさせている。輝元は大坂方総帥として、大坂城西の丸に在城していた。
西の丸には、その直前まで、政権執政にして「天下人」の地位にあった家康が在城していたのであり、石田三成・大谷吉継の挙兵に呼応した毛利勢が、家康留守居衆を追放して、同城を占拠していたものであった。ここで家康が輝元に対して、疎略にしない意向を示しているのは、輝元を穏便に西の丸から退去させるためであった。
まずは西軍大将・毛利輝元を追い出し大坂城西の丸へ
これをうけた輝元は19日、福島正則・黒田長政に宛てて、家康宿老の井伊直政・本多忠勝から領国安堵の起請文を出されたことについて感謝を示し、22日付けで、福島・黒田両名宛の起請文、井伊直政・本多忠勝宛の起請文、そして江戸方大名の池田照政(のち輝政)と井伊直政・本多忠勝宛の起請文を作成し、家康からの領国安堵を謝するとともに、大坂城西の丸を家康に明け渡すことを誓約した。
そして25日付けで、江戸方大名の池田照政・福島正則・黒田長政・浅野幸長・藤堂高虎は連署して、輝元に対して、井伊・本多の起請文の内容(輝元への領国安堵)は偽りではないこと、輝元が家康に対して別儀なければ馳走すること、家康は輝元に対して疎略にしないこと、について起請文を作成した。
このような、江戸方大名の有力者である池田・福島・黒田・浅野・藤堂の仲介によって、輝元は、家康からの領国安堵の意向をうけて、家康への忠節を誓い、在城していた大坂城西の丸から退去することになる。そして27日に、家康は大坂城に戻り、本丸において羽柴家当主秀頼に対面し、以後、家康は再び西の丸に在城するとともに、さらに嫡子秀忠が二の丸に在城することになった。家康は、ほぼ2カ月ぶりに政権執政の立場に返り咲いたことになる。