政権代理人の「大老」ではなく政権主宰者という立場を取る

羽柴政権のもとでは、各地の有力大名はすべて羽柴名字を称する公家成大名とされて、政権はそれらの大名を統合する体裁がとられていたのである。いわゆる「五大老」の有力大名も、もちろんすべて羽柴名字を称していた。ところが合戦を契機に、「大老」筆頭であり、政権執政であり、諸大名中もっとも政治的地位が高かった徳川家康と、その子秀忠・秀康は、羽柴名字を廃し、本来の徳川名字あるいは松平名字を称するようになったのである。このことが持つ外見的な意味合いは大きいといわねばならない。

それまで家康は、羽柴家の「御一家」の一員として、政権執政の立場にあったという体裁がとられていたのであったが、以後は「御一家」を名目にするのではなく、合戦勝利者として、政権執政にあたることを意味するものとなったからである。

イラストレーターの長野剛さんが描いた岐阜関ケ原古戦場記念館の壁に掛かる関ヶ原14武将のタペストリー=2020年10月21日、岐阜県関ケ原町
写真=時事通信フォト
イラストレーターの長野剛さんが描いた岐阜関ケ原古戦場記念館の壁に掛かる関ヶ原14武将のタペストリー=2020年10月21日、岐阜県関ケ原町

関ヶ原で負けた大名の領地を独断で取り上げ味方に与えた

そのうえで10月にはいると、いまだ一部地域においては戦時体制が継続されていたものの、家康は、合戦で敵方になった大名たちの領知の没収・削減と、味方した大名への領知の加増転封てんぽうを行った。そこで対象になったのはすべての大名であり、羽柴家の唯一の一門衆であった小早川秀秋をはじめ、羽柴家譜代の有力大名の福島正則・池田照政(輝政)・浅野幸長・加藤清正・黒田長政らにもわたっていた。

この領知宛行あてがいについて、茶々・秀頼の関与はまったくなく、すべて家康の独断によるものであった。理屈的には、政権運営は家康に任されているので、そこに茶々・秀頼の意向が入る余地はなかったのである。

こうした家康による諸大名への領知宛行は、石田・大谷が挙兵する以前になる、慶長5年2月の森忠政への信濃川中島領の宛行や、長岡(のちに細川)忠興への豊後ぶんご杵築きつき領の宛行などがみられていた。石田らは、こうした家康の行為に強く反発して、挙兵に及んだのであった。そうした石田らに勝利した家康にとって、戦後その路線を踏襲するのは至極当然のことであったろう。