「子どもの安全のため」が妨げる友人関係のスキル
マーシーの調査結果を見て考えるようになった。わたしたちの文化では、友人関係についてのある種のスキルをのばせなくなっているのではないか。もちろんパンデミックのせいもあるけれど、おそらくもっと根が深い。
わたしを含めて多くの人が、善意を尽くして子育てをしながら、“じゅうぶんしてやれているだろうか”というかすかな不安にも動かされているのではないかと思う。子ども同士の遊びの約束をすべて整えて、決められた活動で子どものスケジュールを埋める――スポーツ、習い事、学習体験。でも、子どもの安全のためと思ってやっていても、そのせいで臨機応変の判断が求められるあいまいな状況から子どもを引き離してしまう。幅広い社交の道具を使うことが求められるかもしれない状況から。
子ども時代の人生の練習から得るもの
子どものとき、暇をもてあました子がたくさんいる近所を走りまわって育った人なら、たぶんわたしが言っていることがわかると思う。わたしの世代のほとんどの人は、開拓時代の西部地方のようなコミュニティで育った。子どもは放っておかれて、自分で友だちを見つけ、仲間をつくって、けんかを解決し、勝利をつかみ取らなければならない。はっきりとしたルールはない。子ども同士の付き合いに目を光らせたり首を突っこんだりする大人はいないし、その場に行くだけで褒めてもらえることもない。
たしかに厄介事が起こることもあるけれど、こういう環境は学びの場でもある。この種の経験はかならずしも楽ではないし、空手やピアノの稽古のように達成感があるわけでもない。でも、これもわたしたちが忘れてしまったことだと思う。苦労は学びの機会だ。報いがないのも学びの機会だ。そういう経験を積むことで、人生の練習ができる。少し追いこまれたときに、自分が何者かを知るのに役立つ。道具箱にこの道具がないと、大人の世界で生き抜き、友人関係という複雑なダンスをこなすのがむずかしくなる。
だから自分をひらいて、人とつながる技術を練習しつづけなければならない。友だちづくりにはリスクがつきもので、当然ちょっとした不安を受け入れる必要がある。これはシンプルな事実だ。