秀吉は北条攻めを決意し、東海道方面に進軍する
名胡桃城事件は、明確な惣無事令違反である。同年12月、秀吉は氏政を勅命に逆らう悪人だと糾弾した。
24日には、氏政の本拠地・相模小田原城を攻めるべく諸大名に動員令を発した。翌18年(1590)2月、豊臣軍は尾張・美濃・遠江へと進軍を開始する。
集まった人数は、約7万(毛利家文書によれば「六万七千八百人」)。同時に北関東からは前田利家や上杉景勝らも南下を開始して、小田原に刻々と迫っていく。
ここに創立したばかりの天下政権と、関東百年の北条政権が全面的な大戦争に突入することになった。
豊臣軍の東海道方面軍が進軍するにあたり、秀吉は東海道方面に極めて大量の兵糧を用意させ、最前線に送りつけた。
まず家臣の長束正家に、米20万石を船で駿河まで輸送して倉庫に集積するよう命じた。現地に到着した「総軍勢」に配らせるためである。
追加として、黄金1万枚(1枚1両として、2万貫相当。米にすると2万石)を手配すると、「伊勢・尾張・三州・遠州・駿州」の米を買い入れさせ、これも小田原近くまで送るよう命じた(『上州治乱記』、『太閤記』)。
最初の予定戦場は、伊豆にある山中城である。
山中城は、駿河から相模に向かう伊豆の箱根道を監視するための防衛拠点である。大軍が小田原城に迫るには、この城を制圧しなければならない。
氏政はここに歴戦の松田康長を配置して、縦横の堀を築かせ、山中城の防御性を高めていた。
氏政の家臣は落ちた敵を上から射貫く「障子堀」で対抗
現地を訪れた人なら、入念に仕掛けを施した堅城のひとつで、特にワッフルを想起させる「障子堀」の恐ろしさは、一度見たら忘れられないだろう。
大きな堀の上を狭い道が交差しており、攻め手が道を歩いたら格好の的、堀に落ちても這い上がるまで格好の的で、攻める側はどう足掻いても矢玉の餌食になるしかない作りなのだ。
長期戦間違いなしの完全なる要害である。
それゆえ秀吉は、それまでの日本史上で用意されたことがないほどの兵糧を準備させた。ここに前代未聞の大作戦が開始される。
秀吉は大量の兵糧を買い集め、前線に送らせた。にもかかわらず、現地では予期しない出来事が発生する。将兵が飢え始めたのだ。
豊臣軍が駿河を越えて伊豆に乱入する頃、山中城を預かる北条家臣の松田康長は敵情を探らせ、同年3月19日付の書状において、小田原にこんなことを伝えている。