母・お市と義理の父を死に追いやった秀吉の側室に

では、ここで視点を変えて、秀吉はなぜ茶々を側室としたのでしょうか。私は、理由は複数あると思っています。まず、1つ目は、秀吉が子供になかなか恵まれなかったことです。ご存知のように、秀吉には「おね」(北政所)という正室がいましたが、2人の間に子供はいませんでした。天下人たらんとする秀吉。何としても、男子をもうけて、その子に跡を継がせたいという願望を持っていたのではないでしょうか。そのこともあって、秀吉は茶々を側室にしたのだと思います。茶々は20代前半とまだ若かったことも大きかったでしょう。

秀吉には、茶々の他にも多くの側室がいましたが、それは、秀吉が単に女好きで性的快楽を求めただけというよりは、前述の理由があったと考えられます。茶々は、第一子の男児(鶴松)を産んで早くに亡くした後、文禄2年(1593)に、秀吉の後継者となる秀頼を産んだとされますので、秀吉の期待に応えたと言えましょう。

秀吉が茶々を側室にした理由の2つ目は、秀吉が女好きであったことにもあると思います。秀吉は養子となった甥の豊臣秀次に、訓戒状(1591年12月)を与えていますが、そこには「茶の湯・鷹狩・女ぐるい(狂い)などは、秀吉の真似をしてはならぬ」との文言があるのです。秀吉は自らのことを女狂い=女好きだと思っていたということになります。

醍醐の花見を題材にした浮世絵。女性の名前は「淀殿」「松の丸殿」「お古伊の方」と記されている
醍醐の花見を題材にした浮世絵。女性の名前は「淀殿」「松の丸殿」「お古伊の方」と記されている(画像=喜多川歌麿作「太閤五妻洛東遊観之図」/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

宣教師フロイスは「秀吉は野望と肉欲が激しい」と記した

秀吉は「屋敷の外で、みだりがましく、女狂いをしたり(中略)人目のはばかるところへ、やたらと出入りすることのないように」とも諭しているのです。裏を返せば、秀吉はそういったことをしていたとも取れる一文です。戦国時代に来日し、信長や秀吉とも会見した宣教師ルイス・フロイスはその著書『日本史』において、秀吉のことをこう評しています。

「齢すでに五十を過ぎていながら、肉欲と不品行においてきわめて放縦に振舞い、野望と肉欲が、彼から正常な判断力を奪い取ったかに思われた。この極悪の欲情は、彼においては止まるところを知らず、その全身を支配していた。彼は政庁内に大身たちの若い娘を三百名も留めているのみならず、訪れて行く種々の城に、また多数の娘たちを置いていた」

これは、フロイスのキリスト教的な倫理観念に基づいた評言であり、不正確とする見解もありますが、前述の秀吉の訓戒状と照らし合わせて考えてみると、やはり、秀吉は女好きであったのではと思えてきます。

さて、秀吉が茶々を側室にした3つ目の理由は、茶々が織田信長の姪であったことも大きいのではないでしょうか。秀吉は、尾張中村で百姓をしていた父母のもとに天文6年(1537)に生まれたといわれています(生年・出生については諸説あり)。