60歳前後だった勝家の最期は悲壮だが武将として見事
この老女が勝家の最期を語ったとすれば、信憑性は高いだろう。フロイスも間接的にこの情報を得ていたのかもしれない。女房衆で生き残った者が勝家の最期を伝えたようである。勝家の最期は悲壮だが、見事としかいいようがない。
太田牛一の自筆本『大かうさまくんきのうち(太閤様軍記の内)』は簡潔に次のように記している(意訳)。
お市の連れ子の三姉妹や勝家の遺児はどうなったのか
お市の連れ子の3人の息女については、富永新六郎を付けて秀吉の陣へ送り届けたとも、老臣の中村宗教が付き添ったともいう。ただし、宗教は辞世を詠んでおり、燃える天守の炎の中へ飛び込んだとも伝わる。三姉妹は一乗谷で保護されたともいう。『当代記』は、乳母の才覚によって脱出できたとしているが、お市の息女は3人ではなく、お茶々とお江の2人としている。もうひとりの息女お初はお市の実子ではない可能性もあろう。
長女といわれる茶々(淀殿)は後年、秀吉の後継の豊臣秀頼を生んだのち、勝家の十三回忌となる文禄4年(1595)に「始観浄金大禅定門」(柴田勝家)を供養している(『江州浅井家之霊簿』)。継父だったのは半年ほどに過ぎないが、勝家に対する感謝の思いもあったのだろう。
次女といわれるお初は京極高次に嫁したが、京極家の史料には、天正10年(1582)に嫁したように記しているものがある。本能寺の変後、光秀方となった京極高次は秀吉の追及を逃れ、北庄城の勝家を頼って落ち延び、この時、従妹のお初を娶ったという。勝家が京極家を味方に付けるために縁組したと推測する説もある。