若き歌人は三十一字に「社会の消耗品としての自分」を詠む
ぼくも非正規きみも非正規秋がきて牛丼屋にて牛丼食べる
萩原慎一郎『滑走路』
退職の一日前に胸元のペンをとられるさようならペン
山川 藍『いらっしゃい』
絶え間なく代謝のつづくコンビニで老廃物のやうに働く
熊谷 純『真夏のシアン』
これらの歌は、いずれも非正規社員の若者が作ったものだ。5年ほど前に歌集が出版され、話題になった。
単なる社会の消耗品としての自分。しかし、人間である自分。いったい、どこで人間らしさを保っていけばいいのか。
萩原慎一郎の一首は、もともと朝日新聞に投稿し、朝日歌壇賞(馬場あき子選、2015年)を獲得したものだ。非正規の青年同士が牛丼屋の席に並ぶ。「牛丼屋にて牛丼食べる」と淡々と歌われているが、このときの気持ちは察するに余りある。同じ作者の「頭を下げて頭を下げて牛丼を食べて頭を下げて暮れゆく」には、その心情がもっと直截に詠まれているだろう。
山川藍の作品からは、今の日本の会社の縮図がくきやかに見えてくる。非正規で働いてきたが、明日クビになる自分。その自分が胸にさしているペンを、「これ、会社のだからね」と言って、うむを言わせず抜き取っていく上司。「さようならペン」と柔らかく詠う山川は、実は、この上役よりはるかに優れた人格の持ち主なのである。でも、今の日本では、権力は下品な上司の側にあって、こんな暴挙がまかり通っているのだ。心優しい若者は黙って傷つくほかはない。
短歌の詠み手だけなく受け手にも非正規の人が多い
1991年にバブルが崩壊し、平成不況がやってきて、雇用状況は悪化した。就職難が続き、非正規雇用の若者が激増した。ほんの数年前に何百人も正社員の新人を雇っていた企業が、いきなり雇用ゼロになったりした。いわゆる就職氷河期である。
今も若者の就職は楽なことではない。職業に貴賎はないとはいえ、思い描いてきた職種から遠い生活は、やはり希望格差と言わざるをえないものがある。熊谷の一首は、「老廃物のやうに働く」と自嘲をこめながら、なんとか自分を立たせよう、最後の力をふりしぼって生きていこうという気持ちが作品ににじみ出てきている。
こうした歌が共感をもって広く読まれていくのは、社会のマジョリティーを占める人々に共通の経験があるからだろう。作者だけではない。SNSや新聞歌壇によって現代短歌を初めて読む人々も、あらゆる職種において、非正規で働いている場合が圧倒的に多くなったのである。そうした読者が、「ぼくも非正規きみも非正規」「さようならペン」「老廃物のやうに働く」といったフレーズをわがこととして受けとめ、「自分もやってみよう」という切実な気持ちを持つ。そして歌を作る人となる。このことの連鎖が、今の若者短歌の世界を作り、広げているのである。