「国に頼った分、国に返す義務が起こる」危険性を予見した晶子

対して、晶子はある面賛成しながらも、この国家保障論さえも忌避するのです。

「平塚さんが『母の職能を尽し得ないほど貧困な者』に対して国家の保護を要求せられることには私も賛成します」(「平塚さんと私の論争」 1918年6月より)
「妊娠や分娩の期間には病気の場合と同じく、保険制度に由って費用を補充すると云ふやうな施設が、我国にも遠からず起るでせう。否、大多数の婦人自身の要求で其施設の起る機運を促さねばなりません」(「平塚、山川、山田三女子に答ふ」 1918年11月より)
「国家の特殊な保護は決して一般の婦人に取って望ましいことでは無く、或種の不幸な婦人のためにのみやむを得ず要求さるべき性質のものであると思って居ます」(「平塚さんと私の論争」1918年6月より)

与謝野晶子の著書
撮影=プレジデントオンライン編集部

大正デモクラシーの自由な風が吹く当時だから、女性たちが男や社会に向かって論争することが許されたのでしょう。そして、らいてうは、国と女性がgive-and-takeの関係で、育児保障を行うことを良しと考えました。

が、晶子は用心深く、易々と国の恵みは受けないという姿勢をとります。晶子の抱いたその器具は、1世代後の昭和前半において、現実となっていきます。育てた子供たちは、お国のためにと駆り出されていくわけですから。「国に頼った分、国に返す義務が起こる」を予見していたのかもしれません。加えて、軋轢や問題も多いままの現社会を肯定して国・母協定を結ぶ(即ち現状維持に陥る)ことを危惧したのでしょう。

らいてうは、社会学の基本を押さえていない

二人の論争を現代から見た視点で解説してみましょう。本来、環境条件が異なる時代を論評するのは公平性に欠け、当事者への非礼にあたるのですが、ここは「いつの時代でも起きている良識と常識の違い」を知るために、あえてタブーを犯すことにいたします。

まず、男女性別役割分担を認め、女は母であることが勤めであり喜びでもある、という考え方には、多くの読者が鼻白む思いを抱くのではないでしょうか。この点で、晶子の意見の方が、現代的であることは間違いがありません。

「女性も男性のように稼ぎ、自立すべき」という晶子の主張に関しては、その趣旨自体、多くの現代人が賛成するでしょう。ただ一方で、極度に差別された大正時代において、劣悪・低待遇の労働は女性を不幸にするという、らいてうの考え方に納得する人も少なからずいるはずです。この点については、晶子を理想論、らいてうを現実論という形で両者痛み分けと見ることが妥当そうです。

ただし私は2点、付言しておきたい。

まず、らいてうの挙げる事例はことごとく、「女性の悲惨な環境」であり、この点は、社会学の基本を押さえていない、煽情的なジャーナリズムとも言えそうです。当時は男性の労働も同様に悲惨なものでした。だから、この手の話では、お相子あいこの水掛け論になってしまうのです。それよりも、労働機会の少なさ、同一労働下の給与条件の違い、昇進格差、身分保障格差などをしっかりと提示しなければならなかったでしょう。当時、まともな雇用ジャーナリズムが確立されていたならば、らいてうの持論はもう少し公平性を兼ね備えたデータや事例が補なわれ、「現代人」の心も引きつけたのではないでしょうか。

一方、晶子の考え方を補強するのであれば、「らいてう型の運動では現状の中での次善策にしかならず、改善・進展は見られない」のだから、「あくまでも現時点では理想であるが、その理想の方向に社会を変えるための第一歩として、運動をすべき」と説いたらどうか、などと感じています。