家事とは「自分を大切にすること」だった
で、その「悲劇」の結果何が起きたかというと、なんと、さらに家事がラクになりまくったのだ!
掃除も洗濯も炊事もそれぞれ10分程度しかかからない。ここまでラクになってくると、前にも書いたとおり、あんなにうざかった家事との関係が、まさかのラブラブになってきたのである。
だってほんの短時間ちょこちょこ体を動かすだけで、清潔な片付いた部屋で、うまいものを食べ、お気に入りの服を着て過ごす……そんな理想の暮らしが日々実現できるとなれば、どんなズボラ人間とていそいそと動かずにはいられない。
そうなってみて私は突然、ハタと気づいたのだ。
家事とは人生について回る悪夢でもなんでもなく、「自分の自分に対するおもてなし」だったんじゃ?
家事とは自分で自分の機嫌を取ること。自分を大切にすること。世界中の誰も自分を認めてくれなくたって、自分だけは自分をちゃんと認めることができるのだと確認することだ。これまでは家事が大変すぎて、とてもじゃないがそんなふうには考えられなかった。そう「家事なんてなくなれ」と思っていた。とんでもないことであった。家事をしないということは、自分で自分を大切にすることを放棄するということにほかならないのではないだろうか?
「整う」とはサウナーの専売特許ではなかった
かくして一日の終わり、我が極小の台所を蛇口もガス台も流しも壁も全てキュッキュとふきんで拭き、最後にそのふきんをじゃぶじゃぶ手で洗ってベランダにパシッと干すことが最大の楽しみという人生が始まった。今日もいろんなことがあったけれど、何はともあれちゃんと自分を整えて終えることができた。ああ私、大丈夫! ……と思えるありがたさ。その日の結着をちゃんとつけて終えるとはなんと気分の晴れやかなことだろう。
そのことに、私は50年生きてきて初めて気づいた。「整う」とはサウナーの専売特許ではなかった。というかこれはもうサウナどころではない。どんな贅沢も、これ以上のリラックスと心の平穏をもたらすことはないように思う。
こうなってくると、これには我ながら本当にビックリしたんだが、あんなに人生をかけて夢中になりまくってきたグルメだのショッピングだのという「娯楽」が、急に「どうでも良いこと」になってしまった。
だって生きている限り最低限の家事はどうしたってついて回るわけで、その家事が簡単な上に楽しく、気分を明るくしてくれるのである。つまりは生きているだけハイレベルな楽しさが保証されているんである。私は生きている限り、いつだって満たされているのだ。
生きているだけでまるもうけ。
「足りないもの」など何もない。
……という、どこぞの偉いお坊さまのような心境に至ったのである。
1965年、愛知県生まれ。一橋大学社会学部卒。朝日新聞社で大阪本社社会部、週刊朝日編集部などを経て論説委員、編集委員を務め、2016年に50歳で退社。以来、都内で夫なし、子なし、冷蔵庫なし、ガス契約なしのフリーランス生活を送る。『魂の退社』『もうレシピ本はいらない』(第五回料理レシピ本大賞料理部門エッセイ賞受賞)、『一人飲みで生きていく』『老後とピアノ』など著書多数。