徳川の物見の兵が武田軍とうっかり交戦したという説

しかし『信長公記』には、信玄は堀江城を攻撃し、在陣したと明記されている。この内容を前提にすると、家康が出陣してきたことで、三方原で合戦になっているのだから、それは武田軍が徳川軍迎撃のために引き返したことになる。結論を出す前に、合戦についてのもう一つの重要史料をみてみたい。これまでの三方原合戦についての研究では十分に利用されていないが、内容の信頼性は高いとみなされるものがある。すなわち「当代記」の記述である。

これによれば、信玄は二俣城の普請を終了させ、在城衆を置くと、22日に出陣し、井伊谷領都田(浜松市)を通過して三方原に進軍した。そこへ徳川軍の物見勢10騎・20騎が攻撃し、武田軍と交戦状態になったので、家康はこれを救援するため浜松城を出陣、思いがけずに武田軍と合戦になってしまった。

三方原合戦関係図。平山優『徳川家康と武田信玄』をもとに作成
三方原合戦関係図。平山優『徳川家康と武田信玄』をもとに作成(出所=『徳川家康の最新研究』より)

徳川軍は敗北し、1000人余が戦死した。武田軍は浜松近辺を放火したが、城下には攻め込まなかった。武田軍では浜松城を攻撃するかどうか評議したが、家康の居城であるため簡単には攻略できないと話し合い、10日ほど無為に在陣した。この時に信長からの援軍は佐久間信盛・平手汎秀・水野信元などで、平手は戦死し、水野は岡崎まで退却し、裏切りしたような有様で、おそらく信玄に味方するための企みだろう、という。

“神の君”家康は勇猛ゆえに合戦を始めたわけではない

この「当代記」の内容は、『三河物語』にみえているような、家康の勇壮さのような、家康を美化するようなところはなく、実に自然な内容であるとみなされる。そのため合戦の実態をもっともよく伝えているものと認識できる。ここからすると合戦は、徳川方の物見衆が、偶然にも武田軍に遭遇してしまい、戦闘に入ってしまったので、家康はそれら家臣を救出するために出陣してきたが、逆に戦闘に巻き込まれて、武田軍と本格的な合戦になってしまったという、いわば偶発的に生じたものであった、とみることができる。私はこれこそが、三方原合戦の真実であると考える。

また武田軍の行軍経路として、都田から三方原に南下していることからすると、これは浜松城への牽制とみられるであろうか。その場合、その先の進軍目標がどこかは判断できない。堀江城の可能性もないとはいえないが、合戦後に気賀の刑部に転進していることからすると、三方原に在陣した時には、三河に進軍することを予定していたように思う。