駿河攻めではウィンウィンの関係だった徳川家康と武田信玄の同盟は、1572年、決定的に破綻。信玄は大軍を率いて家康の領地に侵攻する。歴史学者の黒田さんは「有名な三方原合戦は、徳川軍の物見の兵が偶発的に始めてしまった可能性が高い。そして、これほどの大敗は、家康にとってまさに最初で最後の生涯に一度だけのことだった」という――。

※本稿は、黒田基樹『徳川家康の最新研究』(朝日新書)の一部を再編集したものです。

家康の領土に攻め入った信玄はやっぱり強かった

信玄は元亀3年(1572年)11月晦日に二俣城を攻略すると、同城に進軍し、同城の普請をすすめた。これは信玄が、同城を遠江支配の拠点にしようとしたことを示していよう。家康はいよいよ信玄を迎え撃たなければならなくなった。

しかし家康と信玄では、動員できる軍事力にあまりにも格差があった。それを解消するには信長の援軍が必要であったが、信長自身は朝倉・浅井両家などへの対応のため、出陣してくることはできなかった。そのため援軍が派遣された。すでに11月19日の時点で、3000余の軍勢が派遣されてきていた。信長も翌日に謙信に宛てた書状で、「一手」を派遣したことを述べている。その軍勢とは、信長から家康への取次担当であった家老の佐久間信盛、重臣の平手汎秀、そして従属国衆の水野信元であった(「当代記」など)。しかしこれでも武田本軍に対しては劣勢にあったことはいうまでもない。

そうして起きるのが三方原合戦である。

『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(写真=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons)
『徳川家康三方ヶ原戦役画像』(写真=徳川美術館所蔵/CC-PD-Mark/Wikimedia Commons

知られざる三方原合戦の発端の真相とは

この合戦の実態を伝える当時の史料はなく、これまでは『三河物語』の内容が取り上げられてきた。

そこには、信玄は三河から東美濃通って上洛しようとしていて、三方原の台地に上がって、井伊谷を通って長篠に進もうとして、井伊谷領祝田に下ろうとしていたところ、11月22日に家康は、「浜松城から三里に近づいているので打って出て合戦する」と宣言し、「大勢であっても我が屋敷の裏口を通ろうとしているのに、内にいて出ていって咎めない者はいない、負けると思っても出て行って咎めるものだ、我が領国を通っていくことを、大軍だからと出て咎めないわけにはいかない、合戦せずにはすまない、合戦は軍勢の多さではなく天道次第である」と言って、家臣を鼓舞したことが記されている。小説やドラマで馴染みのある場面であろう。

これに対して『信長公記』には、信玄は堀江城を攻撃し、そこに家康が出陣してきて、三方原で合戦になったと記している(角川ソフィア文庫本228頁)。信玄の進軍先が長篠城であったのか堀江城であったのか、両史料では一致していない。近時、信玄は堀江城攻撃に向かったため、家康はそれを阻止するべく出陣し、三方原で合戦になったとする見解も出された(平山優「遠州堀江城と武田信玄」など)。