「一緒に死のう」と話したとき、私とお母さんは親子になった
母は、来日後、頼りにしていた夫とうまくいかず、自ら家を出ることに。野宿しながらも必死に働き、私を育ててくれました。
一方、私は日本語がわからず授業についていけなくても、いじめに遭っていても、母が1週間の出張中、ひとりで過ごさなければならなくてどんなに寂しくても、満足にご飯も食べず、骨と皮だけになっていく母を前にすると、いろんなことをのみ込んでしまうんですよね。母に心配をかけたくないから“パーフェクトなサヘルちゃん”を演じてしまうんです。でも、思春期真っただ中の15歳のとき、学校での激しいいじめに疲れ果てた私が「死にたい」と母に言うと、「一緒に死のうか」と答えてくれたんです。
母も言葉のわからない日本でひとりぼっち。働いても働いてもまともな稼ぎを得られず、日々の食事に困る毎日に押しつぶされそうになっていたんですね。その瞬間、お互いに弱さを見せ合えていなかったことに気づいたのです。ふたり抱き合い泣きながら、このとき初めて親子になれた気がしました。親と子の間ではすれ違ったり、近づいたり、いろんな瞬間がありますが、乗り越えるたびに何度でも親子として更新されていくのだと思うのです。
それ以来、母とどんなことでも話し合うようになりました。親には親の、子には子の苦しみがあって、それを口に出さないから余計に苦しくなるんです。親子で意見が違うのは当たり前。お互いを尊重し合えば、意見が対立することを恐れることはありません。
私が育った孤児院では、養子を望む夫婦が1週間に1度、子どもを探しに来ていました。選ばれれば、施設を出て行ける……子どもたちは気に入られようと必死でした。私は運良くフローラに引き取られましたが、それまで何度も選ばれずに落胆した思いがトラウマとして心に染みついています。子どもなりに、自分のどこがいけなかったのか、次はこうしようと考えるんです。
でも、親子の間でも同じようなことがありますよね。親も「こうあるべき」とか、「普通は」という言葉を持ち出して、無意識に子どもにそれを強いているんですよ。子どもは大好きなお母さんに好かれたいから、愛される自分になろうと努力して、それがうまくいかなくなったとき、関係がぎくしゃくしてしまうのだと思います。