当時、イランで養子を取るには、①既婚者で、②養育する金銭的余裕があり、③子どもが産めないことが条件とされていました。そのとき、フローラは25歳。結婚しており、夫は日本で働いていましたし、実家は王家に縁のある裕福な家庭でしたから、2つの条件はクリアしていました。そして、3つめの条件を満たすために手術を受け、自ら子どもが産めない体に……。私が成人してからその事実を聞き、私を引き取ると決めたフローラの覚悟の強さをあらためて思い知りました。
実母に育児放棄され、祖母に育てられたお母さん
母・フローラは実母(祖母)に育児放棄され、祖母(曽祖母)に育てられました。実母は若くして子どもを授かったため、どう育てていいかわからなかったそう。母の育ての親である曽祖母は祖母と違い、おおらかで自由な人。母と曽祖母は気性がよく似ていたようです。
母は民族性とか宗教・文化とは関係なく慈愛に満ちており、自分たちが食べ物に困っていてもホームレスの人がいると「何が食べたい?」とお店に連れて行き食事をおごるほど。「私たちには帰る家があるからいいじゃない」と。母が慈悲深いのは曽祖母譲りなんです。
母が15歳のときに曽祖母が病で亡くなり、実家に帰ることになったものの、実の母(祖母)と折り合いが悪く、苦しさのあまり自殺未遂を繰り返したそう。そんな母も、祖母と少しでも心を通わせたいと、1年かけて刺しゅうしたプレゼントを渡すのですが、「こんなものいらない」と突き返されてしまったり……実の母に振り回されてきたのです。そして、実家から出る手段として結婚。その後、私を養女にしたことを祖母に大反対されたことなどでイランにいづらくなり、日本にいる夫を頼って来日。
母は今も祖母のことを「母」と呼びません。曽祖母のことを「母」と呼び、祖母に「私の母親はおばあちゃん」と面と向かって言うのです。でも、祖母も母が憎かったのではありません。今では、私の“おばあちゃん”として仲良くさせてもらっているからわかるのですが、プレゼントをもらってうれしいのにうれしいと言えない、そんな人なんです。愛情表現が苦手で、言葉の使い方がヘタだから、思いと裏腹に人を傷つけてしまう……難しいですね、親子って。
どんなにていねいに生きていてもすれ違うし、後悔するような出来事は起きてしまう。だから、ふたりを見ていて、私はこういう生き方はしたくないと思うし、母も私にそんな思いをさせたくないから、「自分の意見を持ちなさい、自分の考えを伝えなさい。親や他人に好みを左右されてあなた自身の色を消してはいけない」と強く言うのです。