多摩動物公園の事故

事故が起きたのは、いまからもう11年も前のことだ。マユというユキヒョウが、前の年に3匹の子どもを生んだ。雄(オス)のスカイと、雌(メス)のエナ、アサヒの3匹だ。食事になるとマユは自分のエサに手をつけず、全てを子どもたちに分け与えようとするので、ふだんは一緒に過ごしているが、食事の時間だけ子どもたちを別室に移していた。

給餌の時間になり、いつものように子どもたちを別室に移したら、不意に子どもたちが鳴き始めた。運動場にいたマユは、瞬時にきびすを返し、子どもたちの元に駆け寄ろうとした。運動場と給餌用の部屋を仕切っていた油圧扉はすでに下降し始めていた。給餌場に飛び込もうとしてマユは扉をくぐろうとしたが、頭部を扉に挟まれた。

子どもたちの元に駆け寄ることもできず、マユは頭蓋骨骨折で死んだ。13歳だった。

雪の上にいる、冬のユキヒョウ
写真=iStock.com/mirceax
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犬は低カルシウム血症を起こしても授乳を続ける

「まさに母性ですね。マユは、命がけで子どもたちを守ろうとしたのだと思います――」と言ったのは、所沢愛犬病院(所沢市)を営む小暮一雄だ。小暮が獣医師になったのは昭和48年だが、獣医になってすぐ、犬に心臓病が多いことを知り、東京女子医大の日本心臓血圧研究所(現在の循環器内科)で助手を務めながら心臓病の治療方法を学んだ。人間の心臓疾患の治療を動物に応用するためだ。当時は動物の心臓病治療ができる獣医師が数えるほどしかいなかったこともあり、小暮の元には全国から診察依頼があったという。

「獣医師という立場上、動物の母性や子どもへの限りない愛情を見る機会は多くあります。身近なところで言えば、母犬です。生後間もない子がお乳を吸う行為を“サックリング(吸啜きゅうてつ)”というのですが、母犬は子どもたちがお乳を求めれば求めるだけ与えようとします。やめようとしないわけですね。その結果、カルシウムが欠乏し、低カルシウム血症を引き起こすことがあります」

それでも母犬は授乳をやめようとしないのだそうだ。

「やがて母犬は身体を痙攣させ、最悪の場合は死に至ります。身体が痙攣を起こし始めても、母犬は授乳をやめようとしないんです。犬は多産なので、子どもが多ければ多いほど、低カルシウム血症を発症する確率は高いのですが、母犬はわが子に母乳を与えようとします」

近年ではペットフードの栄養価の高まりなどもあり、低カルシウム血症で死ぬ母犬は滅多にいなくなったそうだが、少し前の時代にはよく見られた光景らしい。