日本の夫のモラハラを糾弾していた福沢諭吉

妻たちは、夫がモラ夫だと言い、夫たちは妻こそがモラ妻と言う。

Aさんも妻に対して「(お前こそが)モラハラだぞ」と諭している。さて、どちらが正しいのだろうか。

実は、これとほぼ同様の論争は、1898年の明治民法制定前後にも起きている。明治民法は、当時の男女間(夫婦間)には、さまざまな問題が起きているとの認識を背景として、「妻は夫を主君として従うべきである」とした「教女子法」(1710年貝原益軒)の思想をベースに、イエ制度を定めた。

これに対し、福沢諭吉は、「現在の男女の間柄のはなはなだしき弊害を矯正しようとするならば、私は、むしろ、……夫の方を戒めたいと思います。……夫の無礼、不作法、粗野、暴言はどうかすると家庭の調和を破ることが多いので、これを慎むことは男子の第一の務めです」(福沢諭吉『女大学評論 新女大学』現代語訳)と説いた。福沢諭吉は既に、明治時代に日本の夫のモラハラを糾弾していたのだ。

家を出ていく素振りはまったくなかったのに

Aさんには当時、5歳と4歳の娘2人がいた。Aさんによると、家族はとても仲良しで、いつも一緒に行動していたという。

妻子が突然いなくなった日の朝も、妻は、いつもと同じようにキスをしてくれ、にこやかに「行ってらっしゃい。気を付けてね」と優しく声をかけてAさんを送り出してくれた。家を出て行く素振りは、まったくなかった。

Aさんは、結婚10年以上の夫婦として、他人がうらやむほど仲が良く、友人たちは妻の手料理を絶賛していたという。Aさんは子煩悩で、いつも残業はそこそこに切り上げて自宅に直帰し、娘たちと遊ぶのを楽しみにしていた。

そして今回、行方不明の妻に宛てて「何も言わずに出て行ったことは許すから、帰ってきてほしい。自分の悪いところは改める。愛している」という内容の手紙を書いて、妻の実家に郵送した。

離婚裁判でわかった妻の言い分

間もなく、離婚調停が始まった。Aさんは、反省するべきところは反省すると伝え、夫婦としての再同居を強く望んだ。しかし、妻の離婚意思は固く、調停は不成立となり、離婚裁判に進んだ。

妻はなぜ離婚を希望したのだろうか。離婚裁判での妻の証言を紹介しよう。