一緒にいられなくても私を信じ、導いてくれた母
音楽家という表現を生業としている母に、ステレオタイプな母親らしいことを望むことは無理。寂しくはありましたが、やりたいことに全力で取り組む母に後ろめたさは一切ありませんでしたから、私たちのためにやりたいことを制約されてしまう姿は見たくなかった。母は一度ご近所の主婦たちから「小さい子どもを残して音楽だなんて、非常識にも程がある!」と抗議されたことがありました。その時、私たち娘に母は本当に申し訳なさそうに「ごめんね」と言ったのを今も忘れません。だから、私もクヨクヨせずにすんだのです。仕事に駆られ忙しく飛び回る私も、家族同士のつながりが強く、お互いに依存し合う傾向のあるイタリア人の夫や姑から「家族のために時間を割くべきだ」と何度も詰め寄られました。でも、当時も今も私は家族と一緒に過ごす時間の長さで、互いを思いやる気持ちを測ることはできないと思っています。家族至上主義といえるキリスト教的倫理観と、社会的調和を重んじる日本とでは、親子の関係性にも、どちらが良い悪いという問題ではなく、差異は発生します。でも、その違いに親の愛情の度合いを重ねるのはナンセンスであるとも思います。
一緒にいる時間は短くても、母は私たち姉妹のことをよく見ていました。中学生になって急に生意気になり、不良といわれるような友人と遊ぶようになった私を心配して、ミッション系のお嬢様学校へ転校させたりもしました。私は別に非行にも走りませんでしたし、極めて真面目な学生でしたが、家庭内暴力や校内暴力が多発していた世の中でしたから、私立の女子校育ちの母は、それなりに考えたのでしょう。
ほかにも、画家をめざしていたのに、進路相談の際「画家はやめたほうがいい」と担任に言われて落ち込んでいた私に、母なりに何かしら道を示したいと考えたのか、忙しい自分の代わりにフランス、ドイツ、ベルギーに住む友人を訪ねて来いと言うのです。14歳の子どもをひとり海外へ旅立たせるのは相当な勇気が必要です。母も心配はしたでしょうが、直感に従う人なので、「この子なら大丈夫、この子にとって何か特別な経験になるだろう」と感じたようです。
私自身、不安や恐れはありましたが、子どもの頃から“人生は自分の理想どおりにはならないもの。予定調和にすがるのではなく、流れに身を任せることも大切”だと感じていたので、「行かなきゃいけないのなら、行くしかない」と、腹をくくりました。
その旅の途中、イタリアで私を家出少女と疑い、心配してくれたマルコというイタリア人の老人がいるのですが、帰国後、母はそのマルコじいさんと文通友だちになっていましたからね。ちなみに、私の夫はマルコじいさんの孫。人生はどこでどうつながるのかわからないものです。その後も、学校と反りが合わずに悶々としていた17歳の私に「イタリアで絵の勉強でもしてくれば」と声をかけたときも、私のことをマルコじいさんに相談しアドバイスを受けたうえでのことだったのです。心配していないようで、陰でしっかりと私を導いてくれていたのですね。
イタリアで売れない詩人と一緒に暮らしながら画家として活動していたときも、ただ見守ってくれた母。シングルマザーになって、子どもを連れて日本に帰国したときも、「孫の代までは私の責任だ」と満面の笑みで受け入れてくれた母は、いつも生きることにまっしぐらでエネルギッシュ、生きる楽しさの見本となるような人。一緒にいる時間が短くても、彼女のあふれるような愛情は精いっぱい受け止めていたと思っています。
母は現在87歳。2、3年前から入院生活が続いていますが、コロナ禍でずっと会えていません。イタリアにいる夫ともずっと離れ離れですが、物理的な時間は問題ではないと思っています。離れていても、皆がお互いを思い合えていることを私たちは知っています。それを教えてくれたのはやはり母なのです。
構成=江藤誌惠 撮影=国府田利光