子どもの頃の思い出は、強烈な“寂しさ”とともに
母は私たち姉妹を養うため、交響楽団の活動とは別に、バイオリン教師の仕事をどんどん増やしていきました。大型のワゴン車を操り、北海道全土にいる生徒たちのもとへ出掛け、帰りには月謝代わりにいただいたジャガイモや新巻きザケなどの北海道名産品や、時には珍しい生き物をもらってきたり、道中見つけた犬猫を拾ってきたり、ありとあらゆるものをどっさり積んで帰ってきました。型破りで、よそのお母さん方と違いすぎたので「よその家と比べちゃいけない」と幼心に感じていたほどです。
小学校に上がり、母が初めてつくってくれたお弁当は、バターと砂糖を塗った食パン。料理が得意とか、食に興味があるとかという人ではありませんが、てんこ盛りのコロッケやドーナツ、アップルパイ……何かに凝ると取りつかれたようにそればかりつくるので、食べるほうも大変でした。1933(昭和8)年生まれの戦争体験者だからか、当然ですが味覚の価値観も私たちとは違っていました。2歳違いの妹は、食のトラウマからか調理師になったほどです(笑)。
母のやることなすことがほかのお母さんと違うのは、決して手抜きからではなく、ただ仕事と家族を両立するのに必死だった結果であることは、私たち子どもにもはっきりわかっていました。親がそんなだと子どもはしっかりするもので、保育園では、お母さんと離れて泣いているお友だちに「お母さんはお仕事だからガマンするのよ」と慰めていたそう。私が小学生になると、母はますます忙しく駆け回るようになりましたが、慌ただしくも毎日なんだか楽しそうでしたね。でも、私は妹とふたりで毎日お留守番。私は物わかりがいいほうでしたし、母の思いを理解していましたが、それでも寂しいものは寂しい。朝、母を見かけても、帰ってくるのは私と妹が眠りについてから……。
とにかく、母との思い出として強烈によみがえるのは、子どもの頃に感じた“寂しさ”です。母は私たちに毎日チラシの裏一枚いっぱいに置き手紙を書いていってくれました。私たちの似顔絵入りの、愛情に満ちた手紙でしたが、それで寂しさが紛れるわけではない。眠りにつく前に母の顔が見たい。母の顔を見てから、安心して眠りたかった。2歳下の妹にとっては、私がお母さんで、母はお父さんみたいな存在。母からも「お姉ちゃんなんだから、ちゃんと見てなきゃダメよ」と言われるのですが、「私は誰を頼ればいいんだろう?」と胸の中で思っていました。
生き物がそばにいればいいと思っても、団地住まいではそれもかなわず。猫やカメやザリガニを飼っても彼らとは会話ができません。観察脳が鍛えられたのはそのため。次第に、母のことも観察対象として見るようになりました。不必要にいつもバタバタと動き回る母はカメやザリガニとはまた違う、楽しい生き物でしたからね(笑)。小学校高学年にもなると、寂しいと感じることも少なくなり、母の帰りが遅いのをいいことに、夜遅くまで大人向けのテレビ番組を見たりしていました。そのためか、思考がずいぶんと大人びてしまいました。