「やりたいことで生きていく」。トライアル&エラー精神と型にはまらない自由さを持つ母
規格外な母のことは各方面でお話しさせていただいていますが、母は、もともと規格外な人ではなかったんですよ。家柄とお育ちの良いお嬢さんとして、小学校から由緒正しいミッションスクールに通い、“ご学友”は川端康成の娘さん。毎朝、ばあやに付き添われて登校していた箱入り娘なんです。
親に反抗などしたことのない、そんな母でしたが、子どもの時から習っていたバイオリンの影響で“音楽”への思い入れが強く、新設される札幌交響楽団へ入団するため勘当同然で実家を飛び出し、北海道へ。そこで指揮者だった父と出会って結婚するも、私が生まれる前に父は病気で亡くなってしまいました。その後、再婚して妹が生まれましたが、相手は海外駐在の設計技師。別居状態が長く結婚生活らしい生活が送れずに2年ほどで離婚しました。
そんな経緯もあってか、私が物心つく頃にはすでにたくましく、規格外な母が出来上がっていたので、悩み、悲しんだり悩んだりしている母の姿を見たことはありません。ただひたすら前向きに全力で生きる母の姿があっただけ。昭和40年代なんて、まだまだ女性がひとりで生きるのが難しい時代、ましてや母子家庭でありながら生業が時間に不規則な音楽家となると周囲の目も冷たかったと思います。それでも母は生きるために、まずは何でもやってみることで、強く、たくましくなっていったのでしょう。
子どもの頃の思い出は、強烈な“寂しさ”とともに
母は私たち姉妹を養うため、交響楽団の活動とは別に、バイオリン教師の仕事をどんどん増やしていきました。大型のワゴン車を操り、北海道全土にいる生徒たちのもとへ出掛け、帰りには月謝代わりにいただいたジャガイモや新巻きザケなどの北海道名産品や、時には珍しい生き物をもらってきたり、道中見つけた犬猫を拾ってきたり、ありとあらゆるものをどっさり積んで帰ってきました。型破りで、よそのお母さん方と違いすぎたので「よその家と比べちゃいけない」と幼心に感じていたほどです。
小学校に上がり、母が初めてつくってくれたお弁当は、バターと砂糖を塗った食パン。料理が得意とか、食に興味があるとかという人ではありませんが、てんこ盛りのコロッケやドーナツ、アップルパイ……何かに凝ると取りつかれたようにそればかりつくるので、食べるほうも大変でした。1933(昭和8)年生まれの戦争体験者だからか、当然ですが味覚の価値観も私たちとは違っていました。2歳違いの妹は、食のトラウマからか調理師になったほどです(笑)。
母のやることなすことがほかのお母さんと違うのは、決して手抜きからではなく、ただ仕事と家族を両立するのに必死だった結果であることは、私たち子どもにもはっきりわかっていました。親がそんなだと子どもはしっかりするもので、保育園では、お母さんと離れて泣いているお友だちに「お母さんはお仕事だからガマンするのよ」と慰めていたそう。私が小学生になると、母はますます忙しく駆け回るようになりましたが、慌ただしくも毎日なんだか楽しそうでしたね。でも、私は妹とふたりで毎日お留守番。私は物わかりがいいほうでしたし、母の思いを理解していましたが、それでも寂しいものは寂しい。朝、母を見かけても、帰ってくるのは私と妹が眠りについてから……。
とにかく、母との思い出として強烈によみがえるのは、子どもの頃に感じた“寂しさ”です。母は私たちに毎日チラシの裏一枚いっぱいに置き手紙を書いていってくれました。私たちの似顔絵入りの、愛情に満ちた手紙でしたが、それで寂しさが紛れるわけではない。眠りにつく前に母の顔が見たい。母の顔を見てから、安心して眠りたかった。2歳下の妹にとっては、私がお母さんで、母はお父さんみたいな存在。母からも「お姉ちゃんなんだから、ちゃんと見てなきゃダメよ」と言われるのですが、「私は誰を頼ればいいんだろう?」と胸の中で思っていました。
生き物がそばにいればいいと思っても、団地住まいではそれもかなわず。猫やカメやザリガニを飼っても彼らとは会話ができません。観察脳が鍛えられたのはそのため。次第に、母のことも観察対象として見るようになりました。不必要にいつもバタバタと動き回る母はカメやザリガニとはまた違う、楽しい生き物でしたからね(笑)。小学校高学年にもなると、寂しいと感じることも少なくなり、母の帰りが遅いのをいいことに、夜遅くまで大人向けのテレビ番組を見たりしていました。そのためか、思考がずいぶんと大人びてしまいました。
一緒にいられなくても私を信じ、導いてくれた母
音楽家という表現を生業としている母に、ステレオタイプな母親らしいことを望むことは無理。寂しくはありましたが、やりたいことに全力で取り組む母に後ろめたさは一切ありませんでしたから、私たちのためにやりたいことを制約されてしまう姿は見たくなかった。母は一度ご近所の主婦たちから「小さい子どもを残して音楽だなんて、非常識にも程がある!」と抗議されたことがありました。その時、私たち娘に母は本当に申し訳なさそうに「ごめんね」と言ったのを今も忘れません。だから、私もクヨクヨせずにすんだのです。仕事に駆られ忙しく飛び回る私も、家族同士のつながりが強く、お互いに依存し合う傾向のあるイタリア人の夫や姑から「家族のために時間を割くべきだ」と何度も詰め寄られました。でも、当時も今も私は家族と一緒に過ごす時間の長さで、互いを思いやる気持ちを測ることはできないと思っています。家族至上主義といえるキリスト教的倫理観と、社会的調和を重んじる日本とでは、親子の関係性にも、どちらが良い悪いという問題ではなく、差異は発生します。でも、その違いに親の愛情の度合いを重ねるのはナンセンスであるとも思います。
一緒にいる時間は短くても、母は私たち姉妹のことをよく見ていました。中学生になって急に生意気になり、不良といわれるような友人と遊ぶようになった私を心配して、ミッション系のお嬢様学校へ転校させたりもしました。私は別に非行にも走りませんでしたし、極めて真面目な学生でしたが、家庭内暴力や校内暴力が多発していた世の中でしたから、私立の女子校育ちの母は、それなりに考えたのでしょう。
ほかにも、画家をめざしていたのに、進路相談の際「画家はやめたほうがいい」と担任に言われて落ち込んでいた私に、母なりに何かしら道を示したいと考えたのか、忙しい自分の代わりにフランス、ドイツ、ベルギーに住む友人を訪ねて来いと言うのです。14歳の子どもをひとり海外へ旅立たせるのは相当な勇気が必要です。母も心配はしたでしょうが、直感に従う人なので、「この子なら大丈夫、この子にとって何か特別な経験になるだろう」と感じたようです。
私自身、不安や恐れはありましたが、子どもの頃から“人生は自分の理想どおりにはならないもの。予定調和にすがるのではなく、流れに身を任せることも大切”だと感じていたので、「行かなきゃいけないのなら、行くしかない」と、腹をくくりました。
その旅の途中、イタリアで私を家出少女と疑い、心配してくれたマルコというイタリア人の老人がいるのですが、帰国後、母はそのマルコじいさんと文通友だちになっていましたからね。ちなみに、私の夫はマルコじいさんの孫。人生はどこでどうつながるのかわからないものです。その後も、学校と反りが合わずに悶々としていた17歳の私に「イタリアで絵の勉強でもしてくれば」と声をかけたときも、私のことをマルコじいさんに相談しアドバイスを受けたうえでのことだったのです。心配していないようで、陰でしっかりと私を導いてくれていたのですね。
イタリアで売れない詩人と一緒に暮らしながら画家として活動していたときも、ただ見守ってくれた母。シングルマザーになって、子どもを連れて日本に帰国したときも、「孫の代までは私の責任だ」と満面の笑みで受け入れてくれた母は、いつも生きることにまっしぐらでエネルギッシュ、生きる楽しさの見本となるような人。一緒にいる時間が短くても、彼女のあふれるような愛情は精いっぱい受け止めていたと思っています。
母は現在87歳。2、3年前から入院生活が続いていますが、コロナ禍でずっと会えていません。イタリアにいる夫ともずっと離れ離れですが、物理的な時間は問題ではないと思っています。離れていても、皆がお互いを思い合えていることを私たちは知っています。それを教えてくれたのはやはり母なのです。