歴史には残らない一人ひとりの人間の歴史を残す
——「正史」と「稗史」という言葉が出てきます。この記録は一個人の歴史、つまり「稗史」として書かれたそうですね。
【桜庭】この日記をつけたのは、ちょうど手塚治虫さん原案の『小説 火の鳥 大地編』を書いていたときで、舞台となる太平洋戦争の頃の資料を読んでいました。すると、やはり「正史」として残っている国の歴史と一人ひとりの人間の歴史は全く違う。稗史には山田風太郎さんの「戦中派不戦日記」などがありますが、本当のことが正史の下に埋もれてしまうという危機感があったからこそ、当時の作家たちも小説や日記を残したんでしょう。
このコロナ禍でも、例えば、ご飯を食べていたお店に、卒業式がなくなり写真だけを撮ったという娘さんが振袖姿で入ってきたとか。「ヨーイ、ドン!」と歩道橋の上で子どもを走らせていたお父さんがいて、たぶん道で遊ばせると“道路族”とか言われてしまうのでそうしているんだろうなとか、そういう一人ひとりの歴史があるわけです。それを自分が見聞きした分だけでも残したいなと思いました。
わざとぶつかられる、怒鳴られる……
——桜庭さんの小説の読者からすると、フィクション性が高い作品を書いてこられた桜庭さんには、今の現実が小説のように見えているのではと思うのですが、いかがですか?
【桜庭】『赤朽葉家の伝説』など、私が今まで書いてきたものは、「世の中は平和だけれど、その一部分で何かが起こっている。でも、誰もそれを知らない」という状況が多かったと思います。今はコロナ禍で社会全体が大変なことになっているから、そこは違うところですね。
ただ、8月の日記に書きましたが、歩道を歩いていたら、自転車に乗った高齢男性がぶつかってきたので逃げたということがありました。怖かったんですが、でも、それを周囲に話しても、そういう怖い目にあわない人はそんなことが起こるなんて想像もしないという事実も実感しました。同じ場所に暮らしているのに、自分に見えないものは“ないこと”にする人がいるという状況は、私の小説のテーマとリンクする部分かなと思います。
——その男性にぶつかられたという体験談が印象的でした。わざとぶつかられるとか、連れている子どもが騒いだときに怒鳴られるということは、多くの女性が経験していますが、それをオープンにすると本当だと思ってもらえない。いわゆる二次被害の問題ですね。
【桜庭】私も子どものいる人から、通りすがりの人に「子どもにマスクさせろ」と怒られたという話を聞きました。小さな子を連れている人って、子どもを守らなきゃいけない分、立場が弱いから、相手もガツンとくるんでしょうね。でも、それも友達に聞くまでは知らなかったことで、被害にあった人は体験を話さないと理解してもらえない。
ただ、それを否定されたときに、自分が正しいから相手を正すのではなく、相手と意見を言い合うというのが大事なんじゃないでしょうか。相手の意見に「えっ」と思ったとき、「それは違う。私はこう思います」と言うことによって自分も変わる。反論というのは、なかなかとっさには出てこないけれど、それでもやはり言葉を見つけていくべきだと思います。私自身、それがちょっとずつできるようになっているところです。