病気と起業から得た確かな思い

その思いが実り、最終審査を見事通過。2020年、柴田さんは猫舌堂を立ち上げ、摂食・嚥下障害のある人も食べやすいスプーンとフォークを発売した。いちばんこだわったのは、家族全員で使えるような「特別感のないデザイン」だったという。

誰でも使えるデザインにこだわった。
写真提供=猫舌堂
誰でも使えるデザインにこだわった。

闘病を経て得たものは、がんになっても生活は続いていくという気づきと、「生きることは食べること」という実感だった。生きる喜びとは食べる喜びであり、それは誰かと一緒に食事してこそ味わえるもの。一緒に食卓を囲む人々と同じカトラリーで、自分だけ人と違うという特別感や引け目を感じることなく笑顔で食事したい──。猫舌堂の商品は、そんな実感を形にしたものなのだ。

さらに、柴田さんは闘病を経て「人と人との関係に対する意識も変わった」と語る。看護師時代から、患者と接する時には「相手が本当に望んでいることは何だろう」と想像するよう心がけてきた。だが、今思えばそれは、医療者と患者という立場の違いを超えるものではなかったと振り返る。

「自分が患者の立場になったことで、立場を超えて『人と人』として関わったりつながったりすることが大事だと思うようになったんです。これはビジネスでも同じ。企業同士の取引でも、結局は人と人なんですよね。たとえビジネス用語がわからなくても、こうした本質を大事にすれば事業はやっていけると実感しています」

猫舌堂の由来

振り返れば、猫舌堂も人とのつながりから生まれたものだった。がん経験者のブログを通して友人になった女性と、何か一緒にやりたいねと言い合っているうちに、それが起業という形に結びついたのだ。

彼女のニックネームは「猫舌さん」。がんで舌を切除したが、「私、猫舌なの。舌はないけどね」と冗談を飛ばすほど明るい人物だ。起業後、猫舌さんは同社の顧問として柴田さんを支えるようになり、ニックネームはそのまま社名になった。猫舌堂は、柴田さんだけでなく彼女の夢でもあったのだ。

21年4月には、スプーンやフォークに続く第2弾として、軽い竹の素材を生かしたお箸も発売。もうひとつの夢だったカフェも、年内のオープンに向けて着々と計画が進んでいる。目指すは、同じ悩みを持つ人たちが自分らしくいられる“第二の実家”。「皆で笑って過ごして、一歩踏み出すきっかけにしてもらえたら」と柴田さん。

「私も病気のことでブルーになる日もありますが、やっぱり笑いながら生きていきたいですね。起業には大変なこともあるけれど、勇気を持って一歩踏み出せば新しい扉が開いていく。これからも、がんの経験から得た気づきや実感を形にして、しっかり社会に発信していきたいと思います」

文=辻村洋子

柴田 敦巨(しばた・あつこ)
猫舌堂 代表取締役

24年間、看護師として関西電力病院に勤務。40歳で耳下腺がんに罹患し、手術と化学放射線治療を経験。顔にマヒが残り、うまく食べられなかった経験から、同じ悩みを抱えた人たちのための気軽に話せる場やカトラリーなどを提供しようと決意する。関西電力の起業チャレンジ制度を活用して、2020年「猫舌堂」を設立。2児の母。