日本との戦争に、たった一人で反対した議員

実はランキン氏は、女性初の議員というだけでなく、戦争に反対し平和主義を貫いた姿勢でも有名な女性である。第一次世界大戦へのアメリカの参戦を決議する際、当時のウッドロウ・ウィルソン大統領は、ドイツとの戦争に参戦することは、世界を安全なものにし、民主主義を守るためだと述べた。その決議に50人の議員が反対票を投じたが、そのうちの1人がランキン議員だった。また、1941年の真珠湾攻撃の後、日本と戦争をするという決議に、議会でたった一人、反対したのも彼女だった。

“As a woman I can’t go to war, and I refuse to send anyone else.”(私は女性として戦争には行けないし、誰かほかの人を戦争に送ることも拒否します。)”そう言って彼女は反対したが、下院は、388対1で戦争決議を可決した。日本に真珠湾を攻撃され、戦争ムードに火がついたアメリカで、1人反対票を投じたランキン氏は、今でいうと「わきまえない女」ということになるのだろうか。そんなわきまえない女になるのにはかなり勇気がいる。彼女のような考えを持つ女性議員がもっと議会にいたら、ひょっとしたら歴史は変わっていたのかもしれない。

1人目は保守、2人目は革新、3人目は女性

さて、日本女性の政治参画はどうだったのだろうか? 日本の女性が初めて国政選挙に参加したのは1946年4月10日の衆議院選挙。この時当選した女性は39人で、衆議院の女性比率は8.4%になった。現在の衆議院の女性比率は9.9%。80年近くたってもほとんど増えていない現実に愕然とする。

私は、1946年にこの国で初の女性の衆議院議員になった故園田天光光氏に、何度かインタビューしたことがある。2007年に取材した当時、彼女は、戦後初の選挙で39人もの女性が当選した理由について、大選挙区連記制という選挙方法のおかげでもあったと言っていた。旧東京2区から出馬したのだが、人口が多く、1人の有権者が3人の名前を投票用紙に書くことができたという。

「その時の選挙は、まず保守の候補者を1人書く。2人目に革新を書く。3人目に女性を書くという人が一番多かった。理屈から考えればおかしなものよ。保守と革新と女性を書くなんてね」と、当時すでに88歳だった園田氏は、お茶目に笑いながら話してくれた。

この話、いかにもバランスをとるのが好きな日本人的な発想ではないだろうか。もし、今、衆議院選挙が大選挙区制で名前を3人まで書くことができるなら、女性にももっとチャンスが巡ってくるのではないかとさえ思う。特に大選挙区制を推進するつもりはないが、選挙制度というのが議席の構成に大きく影響を与えるものであることは間違いない。

日本の投票用紙
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