焼け野原の上野を見て、新宿で街頭演説
園田氏が選挙にでたのは、戦争直後。ある日、上野駅に父親と一緒に行ったそうだ。街は焼け野原で、上野駅は孤児、浮浪者、そして餓死者の死体でいっぱいだったという。その帰り道、新宿で途中下車し、「今見てきたことをここで話してみろ」と父親に促され、駅前に立って初めて人々の前で話をしたのだという。
「とにかく私の結論は、せっかく生き残されたものが餓死したんじゃ申し訳ない。緑をはやす仕事をしなければいけない、街を作る仕事に携わらなければならない。そうかといって、餓死しないという保証はないのよ。だから、どうやったら生き延びられるか、生きることを考えなければならないと思ったのね。それで自分ひとりじゃ弱いから、みんなでグループを組んでみんなで生きていこう、知恵をだしあいながら」と当時のことを振り返った。そんな街頭演説から始まり、毎日集まって相談しているうちに誕生したのが、「餓死防衛同盟」。そこから出馬し見事当選した。
のちに彼女は、妻子ある民主党の園田直代議士と「白亜の恋」と言われる恋愛関係に落ち、出産し、世間の批判と注目を浴びることとなる。
橋本聖子氏の出産を擁護した元祖「わきまえない女」
ベビーシッターなどない時代だ。「どうやって国会議員をやりながら子育てしたのですか」との私の問いに、自分の議員会館の事務所に赤ちゃんを連れて行って寝かせていたと言っていた。そして、国会の合間に靖国神社に散歩に連れていった時、息子を戦争で亡くし、靖国神社で祈る女性と話したことがきっかけで、その女性にベビーシッターになってもらったという話もしてくれた。戦後、子育てしながら国会議員をやるということがいかに大変だったかを想像することは難しくない。彼女もまた、これまでの男性議員の常識からは程遠い、「わきまえない女」だったのかもしれない。
ただ、その経験があったからこそ、2000年、園田氏は、橋本聖子参議院議員の妊娠を機に国会議員の産休制度創設が議論された時、現職議員としてただ一人出産を経験した人として自民党から懇談会に招かれた。
当時は、国会を欠席するのに「出産」という理由で休むことが参議院規則に明記されていなかった。園田氏は、産休制度創設の必要性を説き、一時は、「議員を辞職すべき」などの声も上がっていた橋本氏を擁護し、規則の改正に貢献したのである。2001年には衆議院でも同様の規則改正が行われた。
しかし、2021年現在、国会議員も地方議員も、労働基準法が定める労働者には該当しないと整理されていて、労働者に認められている産前6週間、産後8週間の休業取得、育児休業の取得対象にはなっていない。また、国会やほとんどの地方議会でも休業期間の定めがなく、出産で公務を欠席することへの理解がなかなか得られないで苦労している議員も多い。
今年2月、やっと都道府県・市・町村の3議長会が、各地方議会が議会運営の規則を定める際に参考にする「標準会議規則」に、産休期間を「産前6週、産後8週」の計14週と明記する改正を行った。規則に拘束力はないが、各地方議会は改正を踏まえた対応を早急に行うべきである。
女性の政治参画への環境整備を進めなければ、女性議員は簡単には増えない。また、子育て中の人の声が政治に反映しづらかったり、女性特有の問題に関しての政策対応も遅れてしまうだろう。