「F1でチャンピオンにならずにF3に行くのか」

ただこの時期、長嶋さんは2度目の辞表を書いている。マネジメントでの成功談が外部にも広がったのか、引き抜きがあったのだ。「かっこいい」外資系企業だし、待遇もいい。心が動いて辞表を出したところ、上司から帰ってきた言葉は「F1でチャンピオンにならずにF3に行くのか」

上司の説明はこうだ。「グローバル企業から見れば日本はアジアの一支社にすぎず、カーレースの世界でいえばF3の扱いだ。F1で勝負しないままでそっちの世界に行くのか」

負けん気の強かった長嶋さんは、この言葉に悔しさが込み上げ、転職は「ここでチャンピオンになってから」と先送りを決めた。

異動で意欲が急降下、喫茶店でサボる日々

次に転機が訪れたのは入社10年目の1995年。営業部門から突然人事部に異動になり、長嶋さんは大ショックを受ける。楽しい職場から引き離された、事業の最前線から離脱させられた──。そんな思いでいっぱいになり、異動後しばらくはまったく仕事に身が入らなかったという。引き継ぎを理由に人事部に出勤せず、喫茶店で本を読んで過ごしたこともあった。

「そのうちサボるのにも飽きてきて、『リクルートはどういう会社になりたいのかな、そのためには人事は何をすればいいのかな』って考え始めたんです。まずは会社の理念やカルチャーを知ろうと思って、創業者の江副浩正が残した資料を読みあさり始めました」

この時長嶋さんは、段ボール箱5〜6個箱に詰め込まれた資料を片っ端から読破。ベンチャーから大企業になるまでの軌跡、新たなカルチャーの確立にかけた思い、一人ひとりが自分の思いを大切にできる会社にしたいという未来像。そうした資料をすべて読み終えた時、入社以来初めて「何だか会社が愛おしくなった」のだという。

この頃のリクルートは、1988年のリクルート事件による信用失墜、それに続くバブル景気崩壊などにより、巨額の負債を抱えていた。

しかし長嶋さんは、「この会社を将来も存続させていきたい、そのためにはまず目の前の債務超過解消と、未来を担う人材の育成が必要」と結論づけた。前者には経営層の判断が欠かせないが、後者は人事が進めていける仕事。人材育成こそが人事の仕事、自分の役割だと「ドーンと腹落ちした」と語る。

そこからの活躍はめざましかった。当時はまだ珍しかった企業内ビジネススクールや、社員を国内外の先進企業に送り込むビジネスインターンプログラムなどを次々と立ち上げ、自社のグローバル化を目指して役員の英語研修プログラムも開始。今に受け継がれる、リクルートの人材育成システムの土台を築いたのだ。