「何もない環境」になぜ人は惹かれるのか

わび、さびに対する憧憬は古くから日本人のなかにあったと思われます。僧侶であり、歌人でもあった西行法師は、平安末期に由緒ある武家の家系に生まれます。しかし、若くして裕福な武士の立場をみずから捨て、出家して諸国を漂泊するのです。

最終的に西行が選んだ暮らしは、京都北麓の山中に結んだ庵での隠遁生活でした。わび、さびへの憧れがそうさせたといっても、けっして過言ではないでしょう。

衣食住のどれをとっても、武士としての生活は、豊かでなに不自由のないものだったと想像されます。それに比べて隠遁生活は、いずれも満たされるものではなかったでしょう。しかし、その満たされないところに、不完全なところに、あえて西行は身を置いたのです。

そして、その生活を受け容れた。山中の庵では季節の移ろいを肌で感じることができたでしょう。小鳥のさえずりや川のせせらぎ、風のそよぎの心地よさを思うさま楽しむことができたはずです。

それは、満たされないがゆえに手に入れることができた暮らし、不完全がもたらした美しい暮らしではなかったでしょうか。そのなかにいて西行は、わび、さび(の美)を満喫していたのだと思います。

利便性を手放して気づく豊かさ

日本で曹洞宗を開いた道元禅師にこんな言葉があります。

「放てば手に満てり」

もっているものを手放すことで、よりすばらしいものが満ちてくる、という意味でしょう。この言葉はどこか、この時代に対する警鐘にも聞こえます。たくさんのものをもち、多くの利便性に囲まれている、というのが現代人の暮らしです。

しかし、誰もが心のどこかで満たされない思いを感じているのもたしかでしょう。いっときでもそれらを手放す、それらから離れる時間をもつことが必要なのではないでしょうか。

たとえば、携帯電話をもたずに山あいの鄙びた温泉宿で一日、二日過ごす。利便性から離れたその時間は、わび、さびの世界(利便性が崩れた不完全な世界)に身を置く時間といっていいかもしれません。そして、それは、心を穏やかさ、あたたかさ、潤い……で満たすはずです。

年に一度でも、二度でも、そんな機会をもちませんか。