本気で受け止めていた冗談。17歳で母の愛情を知る
家にいても母は忙しく、2人で話すことはほとんどありませんでした。兄が受験のときは母も付きっきりで勉強を見ていて、私は部屋へ入っていくだけで怒られる。幼い頃から「おまえは橋の下から拾ってきた」と言われ続け、親は冗談のつもりでも、私は本気で信じていました。
あまりにつらくて、毎週日曜日には家出を計画。窓からこっそり逃げ出そうとすると、住み込みの家政婦さんに呼び止められて、いつも未遂に終わり……。家の中でも次第に無口になりました。
17歳のとき、私はほとんど何も食べられなくなったのです。ちょうど受験を控えた年で友人関係の悩みも重なって、どんどん痩せていきました。すると母も同じように顔が暗くなり、痩せ細っていく。その姿を見て、「この人は私の本当のお母さんなんだ」と初めて思えたのです。
それまではずっと拭いきれない寂しさがあったのでしょう。そんな自分にとって音楽との出合いは大きく、初めて人前で歌ったのが15歳のときでした。自分で作詞作曲したオリジナル曲を文化祭で演奏し、拍手をもらった瞬間、「ああ、私はこれで生きていこう!」と。ようやく自分のポジションを見つけられたのです。
受験が終わり、入学したのは厳しいカトリック系の女子大でした。毎日テストがあるので勉強が大変で、歌のレッスンやバンド活動、バイトに追われる生活が続きます。家では「1度も単位を落とさずに4年で卒業したら、東京へ出してやる」と言われ、必死でがんばりました。けれど、無事卒業したものの両親に反対され、最後は兄が説得してくれたのです。
親のありがたみを感じるようになったのは、神戸の実家を出て、上京してからのこと。1989年にソロデビューしてまもなく、私は子宮内膜症を発症します。当時は病名もあまり知られておらず、診断は難しいとされていた頃。私も病院へ行く時間がなくて、痛みを我慢しながら仕事を続け、つらいときは母によく電話していました。
激しい痛みで意識を失い、救急病院に搬送されることが何度も続き、あるとき外科病院に運ばれました。まだ子宮内膜症とわかる前で「虫垂炎」と診断されたのです。病院から連絡を受けた父は「手術しないと、お嬢さんは亡くなります」と告げられ、「娘の病気は婦人科じゃないですか?」と聞いたそう。けれど、医師の診断は変わらず、腹膜炎を起こす危険があると言われ、やむなく同意したのです。
ところが、その手術で大出血し、子宮内膜症はもっと悪い状態に。日々襲い掛かる激痛と闘いながらも仕事はこなし、ある日、大阪へ出張することになりました。すると新大阪駅のホームで母が待っていたのです。父から痛み止めの注射を預かり、看護師さんを連れていました。私が新幹線から降りるなり、看護師さんに「早く打って!」と頼むので、マネジャーも慌てて、「お母さん、人目もありますから落ち着いてください」と(笑)。娘の痛みを止めなければと必死だったのでしょう。そんな母がいとおしく思えました。