いつだってキレイにしていたほうがいいでしょう?

クリスマスの思い出を書いた『母と子のChristmas Eve』という曲があります。子どもの頃、私はサンタクロースが贈り物を届けてくれると信じていました。友だちは違うと言うので、証拠を見せたくて、7歳のクリスマスイブにサンタへ手紙を書いたのです。すると返事をもらえたのですが、明らかに癖のある母の文字とわかり(笑)。その後も信じるふりをしていたけれど、3年後、母は今まで嘘をついていたと、サンタの正体を告白したのです。

音楽との出合いは3歳のとき、隣家のお姉さんがオルガンを習っていて、初めて鍵盤にふれたのが始まりだった。家に帰って、オルガンが欲しいと頼むと、母はピアノを買ってくれた。母も近所の子どもたちにピアノを教えていたことがあり、いろんな曲を弾いてくれた。幼い愛理さんもメロディーを覚えては弾くようになった。
音楽との出合いは3歳のとき、隣家のお姉さんがオルガンを習っていて、初めて鍵盤にふれたのが始まりだった。家に帰って、オルガンが欲しいと頼むと、母はピアノを買ってくれた。母も近所の子どもたちにピアノを教えていたことがあり、いろんな曲を弾いてくれた。

家庭での母といえば、亭主関白な父に黙って従い、忙しく立ち働いている姿。そんな母の意外な一面を知ったのは中学生のときでした。

開業医の父を手伝う母は先にクリニックから家へ戻り、夕食の支度をします。やがて父から電話があると、母は化粧鏡を卓袱ちゃぶ台にのせて、おしろいを頬にはたき、口紅を塗るんです。毎日見ていて不思議に思い、「お母さん、なんで夜にお化粧するの?」と聞くと、「お父さんが帰ってくるから」と言うのです。私が笑うと、母は「いつだってキレイにしていたほうがいいでしょう?」と。その言葉は鮮烈で、母に“女”を感じました。

本気で受け止めていた冗談。17歳で母の愛情を知る

家にいても母は忙しく、2人で話すことはほとんどありませんでした。兄が受験のときは母も付きっきりで勉強を見ていて、私は部屋へ入っていくだけで怒られる。幼い頃から「おまえは橋の下から拾ってきた」と言われ続け、親は冗談のつもりでも、私は本気で信じていました。

母と愛理さん

あまりにつらくて、毎週日曜日には家出を計画。窓からこっそり逃げ出そうとすると、住み込みの家政婦さんに呼び止められて、いつも未遂に終わり……。家の中でも次第に無口になりました。

17歳のとき、私はほとんど何も食べられなくなったのです。ちょうど受験を控えた年で友人関係の悩みも重なって、どんどん痩せていきました。すると母も同じように顔が暗くなり、痩せ細っていく。その姿を見て、「この人は私の本当のお母さんなんだ」と初めて思えたのです。

それまではずっと拭いきれない寂しさがあったのでしょう。そんな自分にとって音楽との出合いは大きく、初めて人前で歌ったのが15歳のときでした。自分で作詞作曲したオリジナル曲を文化祭で演奏し、拍手をもらった瞬間、「ああ、私はこれで生きていこう!」と。ようやく自分のポジションを見つけられたのです。

受験が終わり、入学したのは厳しいカトリック系の女子大でした。毎日テストがあるので勉強が大変で、歌のレッスンやバンド活動、バイトに追われる生活が続きます。家では「1度も単位を落とさずに4年で卒業したら、東京へ出してやる」と言われ、必死でがんばりました。けれど、無事卒業したものの両親に反対され、最後は兄が説得してくれたのです。

親のありがたみを感じるようになったのは、神戸の実家を出て、上京してからのこと。1989年にソロデビューしてまもなく、私は子宮内膜症を発症します。当時は病名もあまり知られておらず、診断は難しいとされていた頃。私も病院へ行く時間がなくて、痛みを我慢しながら仕事を続け、つらいときは母によく電話していました。

激しい痛みで意識を失い、救急病院に搬送されることが何度も続き、あるとき外科病院に運ばれました。まだ子宮内膜症とわかる前で「虫垂炎」と診断されたのです。病院から連絡を受けた父は「手術しないと、お嬢さんは亡くなります」と告げられ、「娘の病気は婦人科じゃないですか?」と聞いたそう。けれど、医師の診断は変わらず、腹膜炎を起こす危険があると言われ、やむなく同意したのです。

ところが、その手術で大出血し、子宮内膜症はもっと悪い状態に。日々襲い掛かる激痛と闘いながらも仕事はこなし、ある日、大阪へ出張することになりました。すると新大阪駅のホームで母が待っていたのです。父から痛み止めの注射を預かり、看護師さんを連れていました。私が新幹線から降りるなり、看護師さんに「早く打って!」と頼むので、マネジャーも慌てて、「お母さん、人目もありますから落ち着いてください」と(笑)。娘の痛みを止めなければと必死だったのでしょう。そんな母がいとおしく思えました。

開業医の父と母、4歳上の兄の4人家族でよく旅行をした。家庭では昭和4(1929)年生まれの父は亭主関白で、8歳下の母はとにかく黙って耐える女性に見えていた。ところが、あるとき父のささやかな浮気がバレ、母は厳然と父に向き合った。そんな母に驚いて「実はな、あいつはすごく強いやつやねん(笑)」と父は娘にぽつり。そんな父と母が年齢を重ねるほどに仲良くなっていく様子を、愛理さんはほほ笑ましく見守ってきた。
開業医の父と母、4歳上の兄の4人家族でよく旅行をした。家庭では昭和4(1929)年生まれの父は亭主関白で、8歳下の母はとにかく黙って耐える女性に見えていた。父と母が年齢を重ねるほどに仲良くなっていく様子を、愛理さんはほほ笑ましく見守ってきた。

父母の思い出も歌詞に込めて大ヒット

デビューから3年後にヒットした『部屋とYシャツと私』は、結婚する親友のために書いた曲。実は冒頭の歌詞は両親の話なんです。父はお酒を飲むのが好きで新婚時代のある夜、酔いつぶれてなぜか実家へ帰ってしまったそう。ひとり待っていた母は、すごく寂しくて泣いていたと聞きました。

私も結婚に憧れはあったけれど、病気を抱える自分にはできないと思っていました。激しい痛みで病院に担ぎ込まれるたび、子宮の摘出手術を勧められる。お医者さんには「お子さんを授かるのは無理です」とも言われていました。それでも手術を拒み続けたのは、やはり母親になる夢を諦めきれず、希望の芽を自ら摘みとるものかという気持ちがあったからです。

その後、人生のパートナーと出会い、「赤ちゃんができた」とわかったときは夢のようでした。母も信じられないようで唖然とし、エコーの写真を見せると「えーっ!」と大喜び。出産のリスクも大きかったので心配して東京までよく来てくれました。

母親になってからは日々驚くことばかり。娘との時間を過ごしながら、幼い頃にもっと母と一緒にいたかったと思いました。

当時のわが家には看護師さんも住んでいて、薬屋さんなどの出入りも多いので、家に帰っても母とふれ合う時間が少なかった。だから、私は娘を仕事場に連れていくことはしませんでした。保育園や保育ママさんに預かってもらい、家庭ではしっかり娘と向き合うようにしたのです。

デビュー30周年の母への贈り物

母も孫ができたことでずいぶん変わりました。父も母も若返って元気になり、孫と過ごす時間や旅行も楽しむようになりました。娘も年頃になると、私に対する不満をおばあちゃんにこっそり話したり、私も娘の不満を母に漏らしたりと、母が中継地点の役割を果たしてくれています。

『部屋とYシャツと私~あれから~』では、母になって「ママ」と呼ばれ、夫が浮気しても〈子どもを守るからひとりで逝って〉と変わりゆく女心の機微を描く。「『新作』と呼べる続編をつくりたかった」と愛理さん。
『部屋とYシャツと私~あれから~』では、母になって「ママ」と呼ばれ、夫が浮気しても〈子どもを守るからひとりで逝って〉と変わりゆく女心の機微を描く。「『新作』と呼べる続編をつくりたかった」と愛理さん。

そんな娘が巣立ち、私もデビュー30周年を迎え、『部屋とYシャツと私~あれから~』をリリースしました。実はあの新婚夫婦のその後を書いてほしいとずっと言われていたのですが、なかなか書けずにいたのです。でも、両親の老いを感じ、子どもが巣立つ背中を見送る世代になったからこそ実感できる心情がある。それを書けるのは今しかないと、覚悟を決めて書き上げました。

完成した曲を母もすごく真剣に聴いてくれました。最後のところに〈人生の記念日には 君は綺麗といって 私を名前で呼んで〉というフレーズがあります。これは、残りの未来に向かって本当の愛を育んでいこう、という気持ちを込めたラブソング。私が両親を見ていて感じたことで、母への贈り物でもありました。

シングルマザーとしてがんばってきて、やっと娘も巣立ってくれたという安堵あんどもある。2019年の母の日には初めて娘に「ありがとう」とハグされて、思わず涙が出ました。ここから私の第二の音楽人生が始まるような気がしています。