「推し」の4つのプロセス

人が素晴らしい何かに出会ったことで、その体験を誰かに伝えたいがあまりに出る行動、それが「推し」です。

もう少し詳しく紐解いてみると、推しという行動は、「発見」→「感動」→「表現」→「共鳴」の四つのプロセスに分かれています。

まず、私たちは、自分たちを感動させる何かに出会います。それは現実に出会った尊敬できる上司かもしれませんし、テレビに映ったアイドルかもしれませんし、テレビそのものかもしれません。私たちの周りは常に、推しになりえる運命の相手に満ち溢れています。

それは、「推し」の出発点にして、とてもありふれた過程。ただしその対象は人によっては平凡なもので、感動も何も呼び起こさないかもしれない。あくまで自分が「何かあるのではないか」と期待し、接近することで初めて「発見」が起きます。そのため、私はあえて「遭遇」や「出会い」ではなく「発見」とします。

推しの候補に出会うことはたくさんあっても、ちゃんと推しに繫がるのは、対象を推しと認識できる(愛せる)自己があって初めて成立する、極めて主観的な過程であるからです。

推しを発見した私たちは、次に推しを理解しようとします。映画であればじっくりと席に座って見る、アイドルなら現地で応援することもあるでしょう。そうして推しが何を表現しようとしているのかを見て、自分の頭の中で咀嚼するのです。

咀嚼した結果、「この作品がどれほど悲痛な想いから生まれたか」とか「このアイドルがどれだけ必死に努力してきたか」などを理解し、共感できた時、身も蓋もない表現をすると、私たちは思わず心が揺れて「感動」するといえるでしょう。

その実態は、とてつもない偉業への敬意かもしれないし、逆に壮絶な苦しみへの同情かもしれない。いずれにしても、推しを通じてとても強い感情が生じた瞬間、これが「感動」です。

「感動」した私たちは何をするのか。そう、「表現」です。

「表現」はいつの時代でも変わらない行動

本居宣長は「恋の歌がどうしてここまで多いのか」という問いに、「恋はすべての情趣にまさって深く人の心に染みて、大変こらえ難い事柄であるから(自ずと歌を詠むものだ)」だといったことを『石上私淑言いそのかみのささめごと』で論じました。

確かに、感動があまりに大きい時、自分の心のダムが決壊するかのように、それは言葉になって世界へ放出されるものだと思います。意外なまでに、表現とは理性的な行動というより、むしろ本能的な行動なのです。