※本稿は、Jini『好きなものを「推す」だけ。共感される文章術』(KADOKAWA)の一部を再編集したものです。
「推し」の本懐は共感され、相手を動かすこと
友人や家族に、あなたが好きなコンテンツや人について語っても、相槌を打たれただけで、相手が前かがみになって「え? 何それめちゃくちゃ興味ある!」と食いついてくれたことはなかなかないと思います。
それを振り返ってわかる通り、「推し」は大抵の場合、一方的なものです。いくら身振り手振りで「こんなに素晴らしいんだ」「かっこいいんだ」「かわいいんだ」と伝えようとしても、かえって相手にひかれて「へぇ……」と返されてしまう、そんな自己満足的な会話で終わりがちなのです。
自分がいいたいことをいうだけなら簡単ですが、そこに対して理解、共感、同意を得ることは非常に難しい。
なぜなら、「好き」「嫌い」の話になってくると途端に、人の重要な価値観に触れることになるからです。子供の頃に食べていたお菓子を今でも愛好している人が少なくないように、人の好みは案外変わらないものなのです。
私がお伝えしたい「推し」とは、共有される推しです。
ステレオタイプなオタクのように、自分が思った推しへの愛を言葉にしても相手には伝わりません。まして無数の、赤の他人が見ているインターネット上ならなおさらです。友人ならお互いの好みを熟知しているので共感しやすいことでも、不特定多数の他人では勝手がまったく異なります。
これまでSNSを触れたことがない人は、「今の若い人はどうして他人同士でコミュニケーションが取れているのだろう」と不思議に思うかもしれません。
では、相手に共感されるような推しとは何か? それを考える上では、「推し」という行為そのものを分析してみることが有効でしょう。
「推し」の4つのプロセス
人が素晴らしい何かに出会ったことで、その体験を誰かに伝えたいがあまりに出る行動、それが「推し」です。
もう少し詳しく紐解いてみると、推しという行動は、「発見」→「感動」→「表現」→「共鳴」の四つのプロセスに分かれています。
まず、私たちは、自分たちを感動させる何かに出会います。それは現実に出会った尊敬できる上司かもしれませんし、テレビに映ったアイドルかもしれませんし、テレビそのものかもしれません。私たちの周りは常に、推しになりえる運命の相手に満ち溢れています。
それは、「推し」の出発点にして、とてもありふれた過程。ただしその対象は人によっては平凡なもので、感動も何も呼び起こさないかもしれない。あくまで自分が「何かあるのではないか」と期待し、接近することで初めて「発見」が起きます。そのため、私はあえて「遭遇」や「出会い」ではなく「発見」とします。
推しの候補に出会うことはたくさんあっても、ちゃんと推しに繫がるのは、対象を推しと認識できる(愛せる)自己があって初めて成立する、極めて主観的な過程であるからです。
推しを発見した私たちは、次に推しを理解しようとします。映画であればじっくりと席に座って見る、アイドルなら現地で応援することもあるでしょう。そうして推しが何を表現しようとしているのかを見て、自分の頭の中で咀嚼するのです。
咀嚼した結果、「この作品がどれほど悲痛な想いから生まれたか」とか「このアイドルがどれだけ必死に努力してきたか」などを理解し、共感できた時、身も蓋もない表現をすると、私たちは思わず心が揺れて「感動」するといえるでしょう。
その実態は、とてつもない偉業への敬意かもしれないし、逆に壮絶な苦しみへの同情かもしれない。いずれにしても、推しを通じてとても強い感情が生じた瞬間、これが「感動」です。
「感動」した私たちは何をするのか。そう、「表現」です。
「表現」はいつの時代でも変わらない行動
本居宣長は「恋の歌がどうしてここまで多いのか」という問いに、「恋はすべての情趣にまさって深く人の心に染みて、大変こらえ難い事柄であるから(自ずと歌を詠むものだ)」だといったことを『石上私淑言』で論じました。
確かに、感動があまりに大きい時、自分の心のダムが決壊するかのように、それは言葉になって世界へ放出されるものだと思います。意外なまでに、表現とは理性的な行動というより、むしろ本能的な行動なのです。
インターネットが生んだ「共鳴の時代」
「発見」「感動」「表現」、ここまでが「もののあはれ」に現れる日本の中世以前から脈々と受け継がれてきた伝統ある文化なのだとすれば、「共鳴」はとても現代的であり、興味深い過程だと思います。
ほんの数十年前まで、私たち庶民の表現は「日記」でした。万葉集に歌を掲載される貴族から、批評を寄稿する研究者、物語を紡ぐ作家などが、自らの「発見」と「感動」を「表現」にまで昇華できたのですが、実はこれはとても貴いこと。
かつて歌を詠むのは身分の高い人だけに許されたことで、現代にいたっても世界に溢れる表現は、優秀なキャリアを持つ記者や、頭脳明晰な教授、類い稀な才を持つ歌人など、「表現」とは凡人が持ちえない圧倒的な何かを持つ人にのみ許された、特権だったわけです。
しかし、ごく一部の「表現」があったところで、私たちはそれにただ「共感」することはできても、その共感を「表現」できるのは、せいぜい、誰にも見せない日記だけ。
ところがインターネットが発達し、加えてSNSが流行するようになり、誰にも見せることができなかった日記を、世界中に公開することが許されるようになると、人々は自分たちが感動し、表現したことに対して、ただ共感するだけでなく自分も表現を返せるようになりました。
ステージ上でアーティストが素晴らしい演技をした上で、数千人の観客がそのパフォーマンスに対してさらなる「表現」を重ね、さらにその「表現」に返事をしたり、「いいね!」を押すことで、さらに「表現」を繰り返す。
この、感動と表現を相互的に行き来できる時代を、私は「共感の時代」ではなく「共鳴の時代」だと考えています。
一つとして同じ「推し」はないから面白い
「発見」→「感動」→「表現」→「共鳴」。
この四つの過程を経た先にあるのが、今でいう「推し」であると私は定義しています。
推しは一見、何気なく行っていることですが、その間には人間的に重要なプロセスをたくさん踏んでいます。というのも、すべてのプロセスが主観的なのです。
何を発見し、何に感動し、どう表現し、誰と共鳴するか。すべてはあなたが決め、あなたにしかできないことです。だからこそ、推しは面白いのです。
ゲームジャーナリスト、批評家、編集者。2014年にブログ「ゲーマー日日新聞」を立ち上げ、2500万PVを達成。noteにて有料マガジン「ゲームゼミ」を開設し、フォロワー24000人突破。ゲームメディアの副編集長を務めつつ、TBSラジオ『アフター6ジャンクション』にもレギュラー出演。魅力的なゲームを各地で「推し」ながら、ゲームの文化的価値を研究している。