自立を目指してひたすら模索し続けた
——高校卒業後は調理師学校へ進まれたわけですが、ご家族は反対されなかったのでしょうか。
【谷田】父は反対しましたが、私はこうと決めたら人の意見は聞かない性格なので(笑)。しかし、調理師免許はとったものの、椎間板ヘルニアを発症してしまい、その道は諦めることになりました。病気をしていなかったら、今頃はきっとシェフをしていると思います。実は、免許をとってすぐ、祖母から「どこにお店を出したいの?」と聞かれたんですよ。
谷田家に生まれたというだけで、いきなりオーナーシェフになるチャンスが訪れたわけですが、そこは冷静に実力を判断し「いや、もう少し他の店で修行してから……」と断わりました。あそこで祖母の話に乗っていたら、今の私はなかったでしょう。ただ、調理師として学んだことは、その後のレシピ本やタニタ食堂の事業展開に生かされることになりました。
——経営者としては異色の経歴をお持ちですね。調理師を諦めた後は佐賀短期大学(現西九州大学)で家庭科の教員免許と栄養士資格をとり、さらに佐賀大学理工学部で化学を学ばれています。この間に、家業への思いに変化はあったのでしょうか。
【谷田】いえ、ありませんでした。学生時代の私の主軸はあくまでも「自立」。調理師で自立できなかったので、次に家庭科教諭か栄養士になろうと考えました。大学へ編入したのも短大卒よりも良い条件の就職ができることと、短大の勧めがあったことから4大卒になろうとしたのです。その際、理工学部を進んだのは、短大で取得した単位を振り替えることができたからです。
この頃になると、父も「千里はタニタ以外で働いて食べていくんだろうな」と思うようになっていたらしく、たびたびの進路変更にも反対はありませんでした。
——しかし、調理師や家庭科教諭、栄養士を目指して学んだことは、すべて現在の事業に生かされていますね。
【谷田】タニタから離れるために進んだ道が、結局はすべてタニタにつながったので、人生は不思議なものだと思います。小学生の頃から何となく意識し続けてきた「タニタ以外で働くんだ」という思いは、紆余曲折の学生時代を送った後、一般企業に就職してようやくかなえることができました。
ところが、それはゴールではなくスタートラインにすぎませんでした。働き始めてすぐ、自分がビジネスパーソンとしてどれほど未熟か、嫌というほど思い知らされたのです。