「女の敵は女」になる社会のメカニズム

スタンフォード大学クレイマン・ジェンダー研究所の社会学者であり、Facebook社COOシェリル・サンドバーグ氏の『リーン・イン』の主任研究者であったマリアン・クーパー博士は、米国の著名な文芸オピニオン誌「The Atlantic」で「女性はなぜ(往々にして)他の女性を助けないのか」と題した記事を寄稿した。

その中で、クーパー博士はいわゆる女王蜂タイプの成功した女性が他の女性を助けず、味方をせず、むしろ女性を「女って感情的で、男っぽい私とは合わない」と周囲から退けがちで、決して本当の意味で連帯しない理由を説明している。「そもそも女性であることが自分のアイデンティティの中心ではないところに、社会のネガティブなジェンダー先入観を経験してしまったから」

そうやって必死に「世間が考える女像」と自分は違うのだ、だから私は女だけれど女とは肌が合わないのだ、と主張する姿自体が既に、「世間」と同じ土俵で「世間」の決めたルールで闘わされているということに気づかずに。

その姿を見て、また誰かが「“やっぱり”女の敵は女だな」としたり顔でほくそ笑み、それを耳にした素直な彼女たちは「人が言うなら“やっぱり”そうなのだ」と、さらに自分を他の女性から遠ざけていくのだ。“やっぱり”とは、つまり先入観。“やっぱり”が深まるほどに、先入観は強固になっていく。

私たちはこの世の中にあまりに適応し過ぎている

冒頭で、私は強く生きることの意味を勘違いし、現実や自分の素直な感情に蓋をして、世の中ではなく自分の感じ方のほうを変えてきた女たちが悲しいくらいたくさんいると指摘した。

それは使い古された「女とは」「女って」のフレーズが溢れる社会に、彼女たちが懸命に適応して生きてきた、切ない結果だ。

でもそろそろ、本当にリーダーになりたい、自分はなれると自負する女たちこそ、世間にどう見られるかや、女というくくりの中での自分のスタンスや、自分がどう振る舞えばより(あらかじめ評価軸の決まった古い世界の中で)キャリア的に有利かという考えを振り払っていいのではないだろうか。

「女性を退ける」女性、「女性に厳しい女性」は、実は自分こそが性差別主義者であることに気づいていない。女王蜂などと呼ばれるのは、人間的にバランス感覚を欠いていると言われているも同然の不名誉なのだ、と正しく認識したい。

伊藤詩織さんの一審勝訴を目撃した日本の女たち。2020年は、他人が規定する「女」である以前に個人として心底では何を感じるのか、素直に耳を傾けていこう。

写真=時事通信フォト

河崎 環(かわさき・たまき)
コラムニスト

1973年、京都府生まれ。慶應義塾大学総合政策学部卒業。時事、カルチャー、政治経済、子育て・教育など多くの分野で執筆中。著書に『オタク中年女子のすすめ』『女子の生き様は顔に出る』ほか。