感情に蓋をして自分を曲げてきた女たち

彼女らは、自分が性暴力の対象となったとき、強姦の当事者となったとき、どういう行動を取るのだろう。「自分が軽率だった」と自分を責めて親しい者にだけ相談し、あるいは誰にも話すことなく沈黙するのだろうか。「あれは強姦ではなかった」と男の側の都合にみずから寄り添うかのように、記憶を書き換えるのだろうか。「もっと賢くて強い女にならなきゃ」と、事実をなかったことにして「強く」「賢く」生きていくのだろうか。

そして強姦した男はついぞ自分がしたことの本質を理解することなく、野放しのまま。セックスとはそういうものだ、そういう自分は「強くて優れた男」なのだと幼稚に誤解し、妄想に過ぎぬ空っぽの優越感を持ったまま。

たぶん日本には、それが強く生きることだと勘違いし、「強くならなきゃ」と現実や自分の感情に蓋をして、世の中ではなく自分の感じ方のほうを変えてきた女たちが悲しいくらいたくさんいるのだ。

絶望に近い恐ろしい諦め

2019年12月18日、日本社会で顔と名前を公表し、自身のレイプ被害を訴えたジャーナリスト・伊藤詩織さんの民事訴訟で、元TBS記者の山口敬之氏に賠償が命じられ、伊藤さんの勝訴が少なからず驚きを持って大々的に報じられたのは記憶に新しい。

もちろん、正当な過程を経て手に入れられた、望ましい結果であることに一筋の疑いもない。だが「これは日本社会にとって大きな一歩」との有識者たちのコメントは、それが彼らの立場から見ても意外な展開であったことの証左でもある。

女性が強姦されても、それは極めて複雑で繊細な事案で、社会には公正には扱ってもらえない、との絶望に近い恐ろしい諦めが常識とされてきたのが、先進国の一隅に存在するはずの日本社会の姿だったのではないのか。

共感を拒否して張った「結界」

男に理不尽に強姦されたと訴える女性を、なぜあのとき同じ女たちが貶め、無理解を示し、切り捨てたのだろう。その心理はどこからどうやって来るのだろう。

「“そんなこと”を大声で訴えるなんて」。

この種の顰蹙ひんしゅくの中には、行われたことが犯罪であること度外視で、その被害者を、その行動を、思慮が浅いと責める気持ちがたっぷりと詰まっている。自分たちは「感情的ではなく冷静で」、「共感を安売りすることなく思慮深く」、「精神的に独立した、合理的な判断をする個人です」と。

同じ人間として伊藤さん個人の状況を想像し思いやれば、まず自然と湧き出すはずの共感を拒否してまで、なぜ彼女たちは第一にスタンスの違いを宣言して何らかの結界を張る必要があるのか。