「そんなことのために教育を受けたんじゃない」

なぜだろう、家事は、中でも料理は象徴的に、いろいろな価値観やイデオロギーを背負わされてしまったように思う。

夫の駐在帯同でスイスに住んでいた時、香港と英国で投資銀行勤めのバリキャリだったという香港人のママ友が言い放った言葉が印象に残っている。「あーあ、今日も家族の夕食を作るのよ、私が。そんなことのために高い教育を受けたんじゃないわ」。「この私が、屈辱」と言わんばかりの空気から、夫の仕事のためにキャリアを中断して「駐在妻」的な専業主婦生活を「余儀なくされていた」彼女のフラストレーションと、それ以上に彼女のキャリア女性としての自負が裏返った「料理なんか」への軽蔑がひょっこりと顔を出して、なるほどそういう価値観があるのかと思った。

彼女にとって料理はアートなどではなく、「メシ炊き」という作業なのだろう。少なくとも、彼女は料理も、料理する自分自身も好きではないようだった。だが以来、そういうキャリア女性に、海外だけでなく日本でもわりと頻繁に出会うことに私は気づいた。

よくよく聞くと、そういう女性たちの母親は、専業主婦でとにかくまめに料理する人が多いようなのだ。父親や祖父母からの母親の扱われ方を見て育った娘たちには「自分はあんな風にはならない」という姿勢が見えた。中には、その専業主婦だった母親に人生を支配されたと感じている人たちもいた。その支配から逃げるために、母親から与えられる食を拒否して摂食障害になった、だから今も食べることにあまり興味がないのです、と重い告白をする人すらいた。

「女子、もはや厨房に入るべからず」?

「反動」。そうなのだろう。料理に「いいお母さん」「いい妻」という良妻賢母像が重ね合わされて語られた時代からの、揺り戻しでもあるのだろう。女の料理に良妻賢母を紐づけて語ったあの時代はあまりに長過ぎて、どうやら社会に奇妙な染みを残していったのじゃないか。レストランのシェフたちが広く美しい厨房で行うことはアート、だが家庭の台所で女(母、妻、娘)がすることは生活感溢れるメシ炊き。その「従順にメシを炊く女」という、明らかに敬意に欠けるイメージへの抵抗が、CM批判であったり夫婦の家事分担論争であったり、いまジェンダーを語る女性の毛穴から「料理を女性に押し付けるな」と噴き出している。

個人レベルでも、料理の話は相手の男女の別を問わず面倒を起こしがちである。料理ができると言えば「できる女はさすが〜、見習いた〜い(はいはい、実は女子力高いアピール乙)」、料理ができないと言えば「仕事忙しいもんね、いまは女の人だけが家事する時代じゃないもんね(ははっ、アンタ家事できなそうだもんねー)」。どうもサラッとカラッとしない。

そんな危なっかしくセンシティブな現状では、もはや「女子、厨房に入るべからず」である。そういえば先日、プレジデント社が発行するグルメ誌『dancyu』を読んでいて、男性2人があれこれぬか漬けを作るという特集の絵面にホッとしている自分がいた。いまの時代、どういう形であろうとも「ぬか漬け」に「女性」が掛け算されたら、それは必ずどこかの誰かの何かのスイッチを押す。メディアでは、もう男性しかぬか床を触るべきではないのだ。

ああ、料理なる行為に付加される「意味」がありすぎる。女でも男でも誰でも何でもいいから食べ物を自分で調理するというシンプルなことが、そのままの姿ではいさせてもらえない時代になったのは、いったい何のせいだろう?